
アルブレヒト・デューラー 8
1519年、皇帝マクシミリアンが死去した。美術活動の功績によって、皇帝からデューラーへ100グルデンの年金が下付されていたが、財政難のために滞りがちになっていた。新帝カール5世に年金の継続を嘆願するために、1520年夏デューラーは妻アグネスと侍女を伴って、戴冠式がおこなわれるアーヘンに向かった。式典に参加した後、年金継続の認可状を受けることができたデューラーは、アントウェルペンに戻り、1521年まで小旅行を繰り返してこの町に止まった後、ケルンを経由してニュルンベルクへ戻った。ヤン・ファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品を見、クェンティン・マッサイス、ヨアヒム・パティニールと親しくなったが、若い頃のように影響を受けることはなかった。旅行中の作品として伝わるのは素描が大部分で、油彩は3点の肖像画と「聖ヒエロニムス(1521年)」。
1521年5月17日、ルターが逮捕されたという知らせが届いた。ザクセン選帝侯フリードリヒがルターをヴァルトブルク城に保護したことが、誤って伝えられたものだった。デューラーは「自分を大きな不安から救ってくれたキリスト者」の代わりをロッテルダムのエラスムスに求めている。
週刊 西洋絵画の巨匠49 デューラー 小学館 によると、1509年に仕事場つきの住宅を275グルデン(現在の1400万円ほど)で購入している。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
1521年5月17日、ルターが逮捕されたという知らせが届いた。ザクセン選帝侯フリードリヒがルターをヴァルトブルク城に保護したことが、誤って伝えられたものだった。デューラーは「自分を大きな不安から救ってくれたキリスト者」の代わりをロッテルダムのエラスムスに求めている。
週刊 西洋絵画の巨匠49 デューラー 小学館 によると、1509年に仕事場つきの住宅を275グルデン(現在の1400万円ほど)で購入している。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
ニュルンベルクでも宗教改革の嵐が始まった。1525年、ニュルンベルク市参事会は改革派に与することを決定し、ローマ教会との決別を宣言した。さらなる改革を求める再洗礼派や狂信者が横行し、下層市民と結んだ農民の身分解放の運動とも連動して、宗教改革は社会運動へと発展した。
このようなときに描かれたのが「四人の使徒」。デューラーは改革派を支持しながら、より正しい中庸の道があることを示そうとしたらしい。依頼を受けたのではなく、デューラー自信の発想で描かれ、1526年10月、ニュルンベルク市参事会に贈呈されて、市庁舎会議室に掛けられていた。メランヒトンやエラスムスなど、晩年のデューラーの生き方に影響を与えた人物の銅版画も制作している。
旅先でマラリアに罹ったらしいデューラーは、理論書の完成に取り組んだ。「測定法教則(1525年)」、トルコの脅威を受けて「築城論(1527年)」を書き、中断していた主著「人体均衡論」に第3書、第4書を書き加えて、1528年4月に死去した。
岩波文庫にデューラーの「自伝と書簡」、「ネーデルラント旅日記」があるが、2024年1月時点でどちらも品切れになっている。人間デューラーに近づけるので、興味がある方は図書館などで探してみてください。
人物略歴 デューラー1 2 3 4 5 6 7
このようなときに描かれたのが「四人の使徒」。デューラーは改革派を支持しながら、より正しい中庸の道があることを示そうとしたらしい。依頼を受けたのではなく、デューラー自信の発想で描かれ、1526年10月、ニュルンベルク市参事会に贈呈されて、市庁舎会議室に掛けられていた。メランヒトンやエラスムスなど、晩年のデューラーの生き方に影響を与えた人物の銅版画も制作している。
旅先でマラリアに罹ったらしいデューラーは、理論書の完成に取り組んだ。「測定法教則(1525年)」、トルコの脅威を受けて「築城論(1527年)」を書き、中断していた主著「人体均衡論」に第3書、第4書を書き加えて、1528年4月に死去した。
岩波文庫にデューラーの「自伝と書簡」、「ネーデルラント旅日記」があるが、2024年1月時点でどちらも品切れになっている。人間デューラーに近づけるので、興味がある方は図書館などで探してみてください。
人物略歴 デューラー1 2 3 4 5 6 7