
アルブレヒト・デューラー 4
1495年、ヴェネツィアから戻ったデューラーは工房を開いた。ニュルンベルクの市民や商人から注文を受け、「パウムガルトナー祭壇画(1498〜1500年頃)」や「オスヴォルト・クレルの肖像(1499年)」などを制作し評判を上げていった。
ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公からの制作依頼を受けて、右の「公の肖像画(1496年)」や「聖母祭壇画の翼画」を描いたことでより広く知られるようになった。「聖母の七つの悲しみ(1495〜96年頃)」「マギの礼拝(1504年)」「ヤーバッハ祭壇画(1503〜04年頃)」も公の注文によるものらしい。
1502年に、公はフリードリヒという名の少年(公の庶子?)に多額の生活費用と謝礼金をつけて、デューラーに弟子入りさせている。公のデューラーへの信頼と職業としての美術家を高く評価していたことがわかる。 同じ1502年、デューラーは父の死後、12歳の弟ハンスを引き取り、工房はハンス・ジュス・フォン・クルムバッハやハンス・バルドゥング・グリーンなど、弟子や助手が働くようになっていた。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
デューラー5 6 7 8 1 2 3デューラー
ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の肖像 1496年
カンヴァス テンペラ 76×57cm
ベルリン 国立絵画館
ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公からの制作依頼を受けて、右の「公の肖像画(1496年)」や「聖母祭壇画の翼画」を描いたことでより広く知られるようになった。「聖母の七つの悲しみ(1495〜96年頃)」「マギの礼拝(1504年)」「ヤーバッハ祭壇画(1503〜04年頃)」も公の注文によるものらしい。
1502年に、公はフリードリヒという名の少年(公の庶子?)に多額の生活費用と謝礼金をつけて、デューラーに弟子入りさせている。公のデューラーへの信頼と職業としての美術家を高く評価していたことがわかる。 同じ1502年、デューラーは父の死後、12歳の弟ハンスを引き取り、工房はハンス・ジュス・フォン・クルムバッハやハンス・バルドゥング・グリーンなど、弟子や助手が働くようになっていた。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴
デューラー5 6 7 8 1 2 3
ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の肖像 1496年
カンヴァス テンペラ 76×57cm
ベルリン 国立絵画館
