ルネサンス以前のイタリア絵画 3
リミニ派、エミリア・ロマーニャ地方やフェッラーラ周辺に見られる引き延ばされた体軀などの独自の様式、ウンブリア地方アッシジ周辺に見られる特異な図像表現や円光の金箔型押しモティーフを用いる絵画を総称したもの。
1307年の年記とジュリアーノ・ダ・リミニの名前がある祭壇前掛け画にアッシジのジョット壁画の影響が見られるという。この画派の作品は様式的均一性が際立っているため、個々の画家への帰属を決めるのは困難で、ジョットのパドヴァからの影響は見られないという。
1324年にジュリアーノとともにピエトロ・ダ・リミニによって制作された、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に隣接するエレミターニ聖堂のための壁画にはジョットの影響が見られる。しかし世紀半ばにその活動は終わった。(1305年エレミターニ聖堂からスクロヴェーニ礼拝堂へ豪華すぎると抗議している。)
大学都市ボローニャは13〜14世紀、世俗書の写本制作が盛んで挿絵工房も栄えていた。14世紀初めのボローニャ派は北方ゴシックの伝統とリミニ派の画風を吸収し、庶民的な叙述性に富む画風を形成していた。しかし、その頃の絵画作品は16〜17世紀の対抗宗教改革の際に失われほとんど残されていない。
ヴィターレ・ダ・ボローニャ(1330〜59年の記録あり)の登場で世紀半ばから、エミリア・ロマーニャ地方、ヴェネト地方、ロンバルディア地方マントヴァに影響をおよぼすボローニャ派が始まる。ヴィターレの「竜と闘う聖ゲオルギウスと姫君」はその粗野な表現主義から1335年以前の作品と考えられている。
1307年の年記とジュリアーノ・ダ・リミニの名前がある祭壇前掛け画にアッシジのジョット壁画の影響が見られるという。この画派の作品は様式的均一性が際立っているため、個々の画家への帰属を決めるのは困難で、ジョットのパドヴァからの影響は見られないという。
1324年にジュリアーノとともにピエトロ・ダ・リミニによって制作された、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に隣接するエレミターニ聖堂のための壁画にはジョットの影響が見られる。しかし世紀半ばにその活動は終わった。(1305年エレミターニ聖堂からスクロヴェーニ礼拝堂へ豪華すぎると抗議している。)
大学都市ボローニャは13〜14世紀、世俗書の写本制作が盛んで挿絵工房も栄えていた。14世紀初めのボローニャ派は北方ゴシックの伝統とリミニ派の画風を吸収し、庶民的な叙述性に富む画風を形成していた。しかし、その頃の絵画作品は16〜17世紀の対抗宗教改革の際に失われほとんど残されていない。
ヴィターレ・ダ・ボローニャ(1330〜59年の記録あり)の登場で世紀半ばから、エミリア・ロマーニャ地方、ヴェネト地方、ロンバルディア地方マントヴァに影響をおよぼすボローニャ派が始まる。ヴィターレの「竜と闘う聖ゲオルギウスと姫君」はその粗野な表現主義から1335年以前の作品と考えられている。
以後写本挿絵に由来するゴシック趣味が強くなり、1345年以前には様式的円熟期に入っている。
メッザラッタの小聖堂入口の壁画「キリスト降誕」では愛想の良さと親密さの増した主題が、ありえない空間構成のなかで独特の劇的効果を伴って展開される。1349年ヴィターレはウーディネ大聖堂の壁画「聖ニコラウス伝」制作に招かれ、北イタリアへのボローニャ派の物語性に富む自然主義絵画が伝わる。以後晩年の制作は工房による集団制作が多くなった。
1361年再びローマ教皇領となったボローニャで大学刷新の動きがあり、考証学的古典文学研究と科学分野への近代的実験精神が導入された。デビューまもないヤコポ・アヴァンツィに新しい自然主義的関心が見られ「ネオ・ジョッティズム」の絵画が描かれた。
ボローニャの北西モデナではヴィターレから出発したトンマーゾ・ダ・モデナが1350〜51年にヴェネト地方トレヴィーゾで「40人のドメニコ会名士の肖像」を描いている。そこに見られる個性表現や写実的静物描写はヴィターレのゴシック趣味を脱して、純粋の自然主義表現へ向かう方向性を示している。
「ドメニコ会名士の肖像」のなかに鼻眼鏡や拡大鏡が見られる。1305〜06年にドメニコ会説教師ジョルダーノ・ダ・ピザがフィレンツェで行った説教のなかで、眼鏡製造技術を最良の技術の一つと絶賛していた。
1354〜55年にイタリアに来たカール4世から発注された「三連祭壇画」はトンマーゾのトレヴィーゾ滞在中1355〜56年頃に描かれた。14世紀後半のイタリア絵画様式を東欧に広めるきっかけともなった。
1 フィレンツェ シエナ 2 ピサ 4 パドヴァ 5 ミラノ
イタリアルネサンス年表
メッザラッタの小聖堂入口の壁画「キリスト降誕」では愛想の良さと親密さの増した主題が、ありえない空間構成のなかで独特の劇的効果を伴って展開される。1349年ヴィターレはウーディネ大聖堂の壁画「聖ニコラウス伝」制作に招かれ、北イタリアへのボローニャ派の物語性に富む自然主義絵画が伝わる。以後晩年の制作は工房による集団制作が多くなった。
1361年再びローマ教皇領となったボローニャで大学刷新の動きがあり、考証学的古典文学研究と科学分野への近代的実験精神が導入された。デビューまもないヤコポ・アヴァンツィに新しい自然主義的関心が見られ「ネオ・ジョッティズム」の絵画が描かれた。
ボローニャの北西モデナではヴィターレから出発したトンマーゾ・ダ・モデナが1350〜51年にヴェネト地方トレヴィーゾで「40人のドメニコ会名士の肖像」を描いている。そこに見られる個性表現や写実的静物描写はヴィターレのゴシック趣味を脱して、純粋の自然主義表現へ向かう方向性を示している。
「ドメニコ会名士の肖像」のなかに鼻眼鏡や拡大鏡が見られる。1305〜06年にドメニコ会説教師ジョルダーノ・ダ・ピザがフィレンツェで行った説教のなかで、眼鏡製造技術を最良の技術の一つと絶賛していた。
1354〜55年にイタリアに来たカール4世から発注された「三連祭壇画」はトンマーゾのトレヴィーゾ滞在中1355〜56年頃に描かれた。14世紀後半のイタリア絵画様式を東欧に広めるきっかけともなった。
1 フィレンツェ シエナ 2 ピサ 4 パドヴァ 5 ミラノ
イタリアルネサンス年表