
スイス独立4
ルードルフの息子アルブレヒトは皇帝に選出されなかった。諸侯たちが選んだのはナッサウ伯アドルフ。アルブレヒトはスイスとその周辺地域の家領の整備・拡大に努めた。
優れた君主の登場を恐れた、ウーリ、シュヴィーツ、ニートヴァルデンは1291年8月1日無償の相互援助を柱とした「永久同盟」を締結した。この年がスイス建国の年とされ、8月1日は建国記念日とされている。12月にはオブヴァルデンも同盟に加わり、スイス形成の核となったウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンは原初三邦と呼ばれる。
アルブレヒトはオーストリアを確実にハプスブルク家の支配下におさめる努力を続け、「永久同盟」に対しては何もしなかった。1298年皇帝に選出されたが、1308年に甥に暗殺された。
次の皇帝はルクセンブルク家のハインリヒ7世。彼はイタリア経営のため原初三邦をまとめて「帝国代官領」とし、一括して「自由特許状」を付与した。ドイツ史上では無力な国王とされるハインリヒ7世は原初三邦の自由と一体性を帝国法上で認め、スイスの国家的発展に寄与したとされる。
ハインリヒ7世死後の皇帝選挙は二重選挙となった。ハプスブルク家のフリードリヒ(アルブレヒトの子)とバイエルン公ルートヴィヒ、二人が皇帝になった。原初三邦はルートヴィヒを支持。フリードリヒは弟レオポルトにハプスブルク家の精鋭騎士軍をつけ原初三邦への軍事行動をおこす。1315年のモルガルテンの戦い。原初三邦の農民軍は山岳地形を利用して精鋭騎士軍を壊滅させた。1315年「永久同盟」を更新した「モルガルテン同盟」を結び、翌年対立皇帝ルートヴィヒによって承認された。三つの地域が同盟しあう事実上独立した共和国が成立した。しかしハプスブルク家との対立はこの後200年にわたって続く。
優れた君主の登場を恐れた、ウーリ、シュヴィーツ、ニートヴァルデンは1291年8月1日無償の相互援助を柱とした「永久同盟」を締結した。この年がスイス建国の年とされ、8月1日は建国記念日とされている。12月にはオブヴァルデンも同盟に加わり、スイス形成の核となったウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンは原初三邦と呼ばれる。
アルブレヒトはオーストリアを確実にハプスブルク家の支配下におさめる努力を続け、「永久同盟」に対しては何もしなかった。1298年皇帝に選出されたが、1308年に甥に暗殺された。
次の皇帝はルクセンブルク家のハインリヒ7世。彼はイタリア経営のため原初三邦をまとめて「帝国代官領」とし、一括して「自由特許状」を付与した。ドイツ史上では無力な国王とされるハインリヒ7世は原初三邦の自由と一体性を帝国法上で認め、スイスの国家的発展に寄与したとされる。
ハインリヒ7世死後の皇帝選挙は二重選挙となった。ハプスブルク家のフリードリヒ(アルブレヒトの子)とバイエルン公ルートヴィヒ、二人が皇帝になった。原初三邦はルートヴィヒを支持。フリードリヒは弟レオポルトにハプスブルク家の精鋭騎士軍をつけ原初三邦への軍事行動をおこす。1315年のモルガルテンの戦い。原初三邦の農民軍は山岳地形を利用して精鋭騎士軍を壊滅させた。1315年「永久同盟」を更新した「モルガルテン同盟」を結び、翌年対立皇帝ルートヴィヒによって承認された。三つの地域が同盟しあう事実上独立した共和国が成立した。しかしハプスブルク家との対立はこの後200年にわたって続く。
農村共和国だった原初三邦は都市共同体と同盟していく。
1332年都市ルツェルンが同盟に加わる。ルツェルンは1291年以来ハプスブルク家支配下の領邦都市だったが、フィーアヴァルトシュテッテ湖の対岸ウーリ、シュヴィーツと商取引を行い経済的に栄えていた。しかし原初三邦がハプスブルク家と敵対したことで商業活動が窮地に陥った。ルツェルンは近隣諸都市との間にハプスブルク家の所領が続いていたため都市との同盟を諦め、ハプスブルク家の抑圧的支配から離脱するために原初三邦と同盟を結んで自立の道を目指すことにした。
1351年帝国都市チューリヒが原初三邦・都市ルツェルン(この4地域を森林四邦と呼ぶ)と同盟を結んだ。チューリヒ同盟。チューリヒは帝国都市で大幅な「自由と自治」は認められていた。市政は遠隔地商人・騎士階層を中心とする上層市民が握り、小商人・手工業者は参加できなかった。1336年経済力を強めた手工業者たちが騎士ルードルフ・ブルンに指導され、ツンフト革命に成功した。チューリヒの場合市内の全小商人・手工業者は13のツンフトに分けられ、ツンフト長が市参事会のメンバーに加わった。都市を追われた一部の市参事会員は反革命のためハプスブルク家と手を組んでいた。
ツンフト政治体制を守るため、チューリヒはハプスブルク家と敵対していた森林四邦と同盟を結んだ。同盟の第13条にはツンフト政治体制の保証があげられている。相互援助規定では援助をおこなう区域が限定されているが、チューリヒ発行貨幣の流通範囲と一致している。森林四邦としても帝国都市と同盟して平野部へ同盟を拡大できたことにメリットがあった。
1 2 3 4 1350年代
1332年都市ルツェルンが同盟に加わる。ルツェルンは1291年以来ハプスブルク家支配下の領邦都市だったが、フィーアヴァルトシュテッテ湖の対岸ウーリ、シュヴィーツと商取引を行い経済的に栄えていた。しかし原初三邦がハプスブルク家と敵対したことで商業活動が窮地に陥った。ルツェルンは近隣諸都市との間にハプスブルク家の所領が続いていたため都市との同盟を諦め、ハプスブルク家の抑圧的支配から離脱するために原初三邦と同盟を結んで自立の道を目指すことにした。
1351年帝国都市チューリヒが原初三邦・都市ルツェルン(この4地域を森林四邦と呼ぶ)と同盟を結んだ。チューリヒ同盟。チューリヒは帝国都市で大幅な「自由と自治」は認められていた。市政は遠隔地商人・騎士階層を中心とする上層市民が握り、小商人・手工業者は参加できなかった。1336年経済力を強めた手工業者たちが騎士ルードルフ・ブルンに指導され、ツンフト革命に成功した。チューリヒの場合市内の全小商人・手工業者は13のツンフトに分けられ、ツンフト長が市参事会のメンバーに加わった。都市を追われた一部の市参事会員は反革命のためハプスブルク家と手を組んでいた。
ツンフト政治体制を守るため、チューリヒはハプスブルク家と敵対していた森林四邦と同盟を結んだ。同盟の第13条にはツンフト政治体制の保証があげられている。相互援助規定では援助をおこなう区域が限定されているが、チューリヒ発行貨幣の流通範囲と一致している。森林四邦としても帝国都市と同盟して平野部へ同盟を拡大できたことにメリットがあった。
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