
スイス独立2
ザンクト・ゴットハルト峠を越える交易ルートは、その北側ウーリに運送業を発展させ、大きな利益を生み出すことになった。
商品を運ぶ荷獣の組合が結成され、スムーズに商品を運ぶシステムも決められた。またこの地域の生産品の取引も活発になった。牧畜業は古くから行われていたが、肉、チーズなどの取引は平野部の都市だけでなくイタリアとも取引されるようになった。またイタリアからも穀物や肉製品の貯蔵に必要な塩を輸入した。のどかな山村がスイスの歴史の重要なポイントを押さえるようになった。
1231年帝国代官領だったウーリは「自由特許状」を与えられた。「ウーリ渓谷に居住するすべての人々」に宛てられたもので「渓谷共同体」が作られていたらしい。「帝国への奉仕」は義務づけられるが、近隣領主の支配は受けない。近隣領主と対等の立場を得たらしい。
皇帝側にも、帝国の直属にするメリットがあった。フリードリヒ2世はシチリア王も兼ねていて、ドイツからイタリア(ミラノ)に出るルートを確保する必要があった。
ウーリと隣接するシュヴィーツ、ニートヴァルデン、オブヴァルデン(合わせてウンターヴァルデン)も自由と自治を求めるようになった。
1 2 3 4 1350年代

商品を運ぶ荷獣の組合が結成され、スムーズに商品を運ぶシステムも決められた。またこの地域の生産品の取引も活発になった。牧畜業は古くから行われていたが、肉、チーズなどの取引は平野部の都市だけでなくイタリアとも取引されるようになった。またイタリアからも穀物や肉製品の貯蔵に必要な塩を輸入した。のどかな山村がスイスの歴史の重要なポイントを押さえるようになった。
1231年帝国代官領だったウーリは「自由特許状」を与えられた。「ウーリ渓谷に居住するすべての人々」に宛てられたもので「渓谷共同体」が作られていたらしい。「帝国への奉仕」は義務づけられるが、近隣領主の支配は受けない。近隣領主と対等の立場を得たらしい。
皇帝側にも、帝国の直属にするメリットがあった。フリードリヒ2世はシチリア王も兼ねていて、ドイツからイタリア(ミラノ)に出るルートを確保する必要があった。
ウーリと隣接するシュヴィーツ、ニートヴァルデン、オブヴァルデン(合わせてウンターヴァルデン)も自由と自治を求めるようになった。
1 2 3 4 1350年代

この3地域は帝国代官領ではなく、ハプスブルク家の所領が多かった。1232年ハプスブルク家が兄「賢い」アルブレヒトと弟「無口な」ルードルフに分裂、対立した。兄は皇帝派、弟は教皇派、3地域は弟ルードルフの支配地だった。
1239年シュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世は教皇から破門された。
1240年シュヴィーツは皇帝に軍事援助をしたことで、自由特許状を獲得した。しかしハプスブルク家は皇帝が破門されていることを理由に自由特許状を無効とした。
ニートヴァルデンは教皇派だった。峠越えの通商路沿いのイタリア諸都市も教皇派だったし、ウーリも帝国との関係が悪化していた。1242年弟ルードルフが皇帝派に変わると、代官を追い出し、法的には認められないが事実上シュヴィーツと同様の立場になった。
オブヴァルデンは皇帝派で自由特許状を期待していたが、ハプスブルク家領内で唯一南へ向かうブリュニヒ峠があり弟ルードルフの支配下に置かれた。
州の区分は現在のもの。あくまで理解するための手助けと考えてください。
1 ウーリ 2 シュヴィーツ
3-1 ニートヴァルデン 3-2 オブヴァルデン
1239年シュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世は教皇から破門された。
1240年シュヴィーツは皇帝に軍事援助をしたことで、自由特許状を獲得した。しかしハプスブルク家は皇帝が破門されていることを理由に自由特許状を無効とした。
ニートヴァルデンは教皇派だった。峠越えの通商路沿いのイタリア諸都市も教皇派だったし、ウーリも帝国との関係が悪化していた。1242年弟ルードルフが皇帝派に変わると、代官を追い出し、法的には認められないが事実上シュヴィーツと同様の立場になった。
オブヴァルデンは皇帝派で自由特許状を期待していたが、ハプスブルク家領内で唯一南へ向かうブリュニヒ峠があり弟ルードルフの支配下に置かれた。
州の区分は現在のもの。あくまで理解するための手助けと考えてください。
1 ウーリ 2 シュヴィーツ
3-1 ニートヴァルデン 3-2 オブヴァルデン
