
スイス独立3
皇帝フリードリヒ2世の没後しばらくして、皇帝不在の大空位時代(1254-73)になった。
諸侯・領主は支配領域の拡大、支配の強化を目指した。「自由と自治」の危機を迎えた帝国都市は相互扶助によって危機からの脱出を図った。1254年にマインツ、ヴォルムスを中心とする「ライン都市同盟」が締結された。
西スイスではキーブルク家とサヴォワ家が勢力拡大を競っていた。1243年帝国都市ベルンとキーブルクの領邦都市フリブールが都市同盟を結んでいた。それにムルテン、ゾーロトゥルン、ビール、アヴァンシュなどの都市も加わり都市の自立を図っていた。
1291年の「永久同盟」に「同盟の古い内容をこの文書をもって更新した」と書かれていることから「渓谷共同体」も同盟を結んでいたらしい。
1264年キーブルク家が断絶した。ハプスブルク本家のルードルフ(兄「賢い」アルブレヒトの子)は政治的手腕を発揮して1273年に中央スイス各地の支配権、ツークを含めた諸都市を弟ルードルフのラウフェンブルク家から購入した。そのなかにシュヴィーツとニートヴァルデンの支配権、ウンターヴァルデン全域の土地領主権が含まれていた。
ハプスブルク家は分割されていた支配地を統一し、キーブルク家の所領を加えさらに強力になって「渓谷共同体」にとっては大きな危機を迎えることになった。
1273年秋、ルードルフが神聖ローマ皇帝に選出された。それまで敵だったルードルフが皇帝になり「渓谷共同体」の保護者になった。皇帝が認めた「帝国自由」の特許状によって「自由と自治」が保証された。
ルードルフはウーリの「帝国自由」を承認したが、シュヴィーツには認めなかった。ルードルフが勢力を傾けたのはオーストリア諸邦の獲得だった。「渓谷共同体」に対してはアルプス越え交易路の平野部への出口にあたるルツェルン、ツーク、グラールスなどの支配領域で封じ込める策をとっていた。しかし功を奏する前1291年にルードルフは死去した。
1 2 3 4 1350年代
諸侯・領主は支配領域の拡大、支配の強化を目指した。「自由と自治」の危機を迎えた帝国都市は相互扶助によって危機からの脱出を図った。1254年にマインツ、ヴォルムスを中心とする「ライン都市同盟」が締結された。
西スイスではキーブルク家とサヴォワ家が勢力拡大を競っていた。1243年帝国都市ベルンとキーブルクの領邦都市フリブールが都市同盟を結んでいた。それにムルテン、ゾーロトゥルン、ビール、アヴァンシュなどの都市も加わり都市の自立を図っていた。
1291年の「永久同盟」に「同盟の古い内容をこの文書をもって更新した」と書かれていることから「渓谷共同体」も同盟を結んでいたらしい。
1264年キーブルク家が断絶した。ハプスブルク本家のルードルフ(兄「賢い」アルブレヒトの子)は政治的手腕を発揮して1273年に中央スイス各地の支配権、ツークを含めた諸都市を弟ルードルフのラウフェンブルク家から購入した。そのなかにシュヴィーツとニートヴァルデンの支配権、ウンターヴァルデン全域の土地領主権が含まれていた。
ハプスブルク家は分割されていた支配地を統一し、キーブルク家の所領を加えさらに強力になって「渓谷共同体」にとっては大きな危機を迎えることになった。
1273年秋、ルードルフが神聖ローマ皇帝に選出された。それまで敵だったルードルフが皇帝になり「渓谷共同体」の保護者になった。皇帝が認めた「帝国自由」の特許状によって「自由と自治」が保証された。
ルードルフはウーリの「帝国自由」を承認したが、シュヴィーツには認めなかった。ルードルフが勢力を傾けたのはオーストリア諸邦の獲得だった。「渓谷共同体」に対してはアルプス越え交易路の平野部への出口にあたるルツェルン、ツーク、グラールスなどの支配領域で封じ込める策をとっていた。しかし功を奏する前1291年にルードルフは死去した。
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