
ヴァザーリ 5
1563年コジモ1世は国立美術アカデミー「アカデミア・デル・ディセーニョ」を創立した。初代の長はボルギーニ、ヴァザーリは48人の創立会員の一人だった。チマブーエ(1240頃〜1302頃)からヴァザーリの時代までの優秀な芸術家の生地や埋葬地の調査、作品の記録、死去した場合の葬礼などが中心的仕事だった。
教育方法は偉大な画家たちの造型法を再現することだった。レオナルド、ミケランジェロの死体解剖からサンタ・マリア・ヌォーヴォ病院と契約して解剖学の授業をおこない、マンテーニャ(1431〜1506)とラファエロが古代作品を模倣していることから古代彫刻を学習した。
ディセーニョ(素描)は「芸術家列伝」初版でも強調されている。ギベルティ(1378頃〜1455)が「素描は土台であり理論である」と語ったと伝えられる、トスカーナ芸術の伝統だった。第2版になるとトスカーナ芸術の世界に勝る優秀性を示す言葉となり、アカデミーの基本理念となった。
ヴァザーリは名誉と富を得て、コジモと同じ1574年に死去した。アカデミーで葬礼され、生地アレッツォに自らが生前につくっていた礼拝堂に埋葬された。
世界美術大全集15 マニエリスム
教育方法は偉大な画家たちの造型法を再現することだった。レオナルド、ミケランジェロの死体解剖からサンタ・マリア・ヌォーヴォ病院と契約して解剖学の授業をおこない、マンテーニャ(1431〜1506)とラファエロが古代作品を模倣していることから古代彫刻を学習した。
ディセーニョ(素描)は「芸術家列伝」初版でも強調されている。ギベルティ(1378頃〜1455)が「素描は土台であり理論である」と語ったと伝えられる、トスカーナ芸術の伝統だった。第2版になるとトスカーナ芸術の世界に勝る優秀性を示す言葉となり、アカデミーの基本理念となった。
ヴァザーリは名誉と富を得て、コジモと同じ1574年に死去した。アカデミーで葬礼され、生地アレッツォに自らが生前につくっていた礼拝堂に埋葬された。
世界美術大全集15 マニエリスム
ヴァザーリを継いだのはブオンタレンティ、ジャンボローニャ、サンティ・ディ・ティートたち。アカデミーはトスカーナ以外でも広く知られ、パッラーディオ、ティツィアーノ、ティントレット、フェデリーコ・ツッカリも会員になっている。1565年の公子フランチェスコと皇帝マクシミリアン2世の妹ヨハンナとの結婚の際は、ボルギーニの意匠のもと会員たちが協力している。1567年にはスペイン王フェリーペ2世が、エル・エスコリアル修道院の装飾を依頼してきて、フェデリーコ・ツッカリが訪れている。
1574年、大公となったフランチェスコはこのアカデミーを、画家、彫刻家、建築家が従来から所属していた、医師・薬種商組合、石工・木工商組合から切り離し、公的な権利を持つ団体とした。これにより中世以来職人だった芸術家の社会的身分が確立された。
若い芸術家たちは工房の見習いから、アカデミーで組織的な教育を受けられるようになった。裸体素描、解剖学、衣襞の習得、幾何学と遠近法。数学の授業は最初ガリレオ・ガリレイに依頼され、その弟子に引き継がれた。サン・ロレンツォ聖堂新聖具室を本拠とし、1579年には「三芸術(絵画、彫刻、建築)」の3つの花輪が絡み、「神の孫のごとく」という標語がつけられた紋章が決まった。
ヴァザーリ1・2・3・4 人物略歴
1574年、大公となったフランチェスコはこのアカデミーを、画家、彫刻家、建築家が従来から所属していた、医師・薬種商組合、石工・木工商組合から切り離し、公的な権利を持つ団体とした。これにより中世以来職人だった芸術家の社会的身分が確立された。
若い芸術家たちは工房の見習いから、アカデミーで組織的な教育を受けられるようになった。裸体素描、解剖学、衣襞の習得、幾何学と遠近法。数学の授業は最初ガリレオ・ガリレイに依頼され、その弟子に引き継がれた。サン・ロレンツォ聖堂新聖具室を本拠とし、1579年には「三芸術(絵画、彫刻、建築)」の3つの花輪が絡み、「神の孫のごとく」という標語がつけられた紋章が決まった。
ヴァザーリ1・2・3・4 人物略歴