
ヴァザーリ 2
ヴァザーリは生地アレッツォの文化的風土もあって、ラテン語を基礎とする古典の教養を持っていた。12歳の時、フィレンツェ摂政パッセリーニ枢機卿の前でヴェルギリウスの長い詩句を暗唱できた。ヴァザーリの父は摂政の親戚で、秀才の息子を出世させようと考えていたらしい。メディチ家の後継者で同年齢のイッポーリトとアレッサンドロの学友となり、生涯メディチ家の保護を受け、その奉仕者となった。
ヴァザーリは1527年、16歳の時に父を亡くし、母と6人の弟妹を扶養するようになった。それもあって生涯を通じて蓄財に熱心になり、会計簿を残している。この会計簿は当時の芸術家の報酬を知るための貴重な資料になっている。
芸術家としての修業も工房ではなく、見聞を広めるために、1538年にローマで古代遺跡を素描したり、1541年にヴェネツィアで都市景観を素描している。ヴェネツィアでは同郷のアレティーノと会い、彼の喜劇のために擬古代都市の舞台装置を依頼されている。マントヴァではジュリオ・ロマーノと会い、その絵画と建築に感動し、ゴンザーガ公の宮廷での名誉、富、権威に羨望を感じ、自らもそれを求めるようになった。「芸術家列伝」でも「王とともにある」「王侯のように暮らす」が理想の芸術家像になっている。
「芸術家列伝」では道徳的に、芸術家の奇行や性的逸脱を非難しているが、多くの文献にヴァザーリの曖昧な人格(同性愛、吝嗇、貪欲、傲慢)が記されているらしい。
ヴァザーリは1527年、16歳の時に父を亡くし、母と6人の弟妹を扶養するようになった。それもあって生涯を通じて蓄財に熱心になり、会計簿を残している。この会計簿は当時の芸術家の報酬を知るための貴重な資料になっている。
芸術家としての修業も工房ではなく、見聞を広めるために、1538年にローマで古代遺跡を素描したり、1541年にヴェネツィアで都市景観を素描している。ヴェネツィアでは同郷のアレティーノと会い、彼の喜劇のために擬古代都市の舞台装置を依頼されている。マントヴァではジュリオ・ロマーノと会い、その絵画と建築に感動し、ゴンザーガ公の宮廷での名誉、富、権威に羨望を感じ、自らもそれを求めるようになった。「芸術家列伝」でも「王とともにある」「王侯のように暮らす」が理想の芸術家像になっている。
「芸術家列伝」では道徳的に、芸術家の奇行や性的逸脱を非難しているが、多くの文献にヴァザーリの曖昧な人格(同性愛、吝嗇、貪欲、傲慢)が記されているらしい。
1534年、メディチ家の財務係をしていたオッタヴィアーノ・デ・メディチが、一族の肖像画の画廊をつくろうとして、ヴァザーリに「ロレンツォ・デ・メディチの肖像」(ポントルモのコジモ・イル・ヴェッキオの肖像と対幅)と「アレッサンドロ・デ・メディチの肖像」を委嘱した。アレッサンドロは輝く鎧姿で描かれ、後のパラッツォ・ヴェッキオの「レオ10世の間」では、アレクサンドロス大王として描かれている。
1530年にカール5世の後援を受けてフィレンツェ公となったアレッサンドロはヴァザーリを重用した。1535年にチュニスでトルコ人を制圧したカール5世はイタリアを北上する大巡行をおこなった。1536年のフィレンツェ入城の際に、アレッサンドロはヴァザーリに一時的な装飾の構築を命じている。カールをカルタゴのハンニバル軍を制圧した大スキピオに擬したモニュメントがつくられた。宮廷芸術家の役割は宮廷の「神話」を創造することで、ヴァザーリは素早い仕上げ、象徴の駆使、若い芸術家の起用などで、都市空間を権力の展示場とした。一時的なもののため、彼の記述によってしか知ることができない。
1537年、アレッサンドロが「自由」のために弟脈のロレンツィーノ(ロレンザッチョ)によって暗殺されて、ヴァザーリの立場は暗転した。
世界美術大全集15 マニエリスム
ヴァザーリ3 4・5・1 人物略歴
1530年にカール5世の後援を受けてフィレンツェ公となったアレッサンドロはヴァザーリを重用した。1535年にチュニスでトルコ人を制圧したカール5世はイタリアを北上する大巡行をおこなった。1536年のフィレンツェ入城の際に、アレッサンドロはヴァザーリに一時的な装飾の構築を命じている。カールをカルタゴのハンニバル軍を制圧した大スキピオに擬したモニュメントがつくられた。宮廷芸術家の役割は宮廷の「神話」を創造することで、ヴァザーリは素早い仕上げ、象徴の駆使、若い芸術家の起用などで、都市空間を権力の展示場とした。一時的なもののため、彼の記述によってしか知ることができない。
1537年、アレッサンドロが「自由」のために弟脈のロレンツィーノ(ロレンザッチョ)によって暗殺されて、ヴァザーリの立場は暗転した。
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