
ポントルモ 4
フィレンツェ包囲の頃に描かれた、ポントルモの「槍を持つ兵士の肖像(1529〜32年頃)」のモデルは若い頃のコジモだとする説と、反メディチ派の市民兵の姿だとする説がある。メディチ家の仕事をしているが、ポントルモがメディチを支持していたかどうかは不明らしい。
皇帝軍による共和国市民軍の大量処刑を描いたとされる「一万一千人の殉教(1529〜31年)」は前面に処刑を指揮する皇帝が描かれているが、そのモデルはミケランジェロの「ジュリアーノ・デ・メディチ(メディチ礼拝堂 1520〜34年)」。メディチ家の公子が処刑命令者として描かれている。
ポントルモは、1546年から死の年(1556/57)まで、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂内陣にクレメンス7世の意を受けて、ミケランジェロの「最後の審判」に匹敵する壁画を描いた。習作素描が残されているが、作品は18世紀に破壊されてしまった。ポントルモが退廃したマニエラの模倣者と評価されていた時代だった。
世界美術大全集15 マニエリスム
ポントルモ 1 2 3 人物略歴
ポントルモ サン・ロレンツォ聖堂壁画のための習作素描
フィレンツェ ウフィツィ美術館素描版画室
皇帝軍による共和国市民軍の大量処刑を描いたとされる「一万一千人の殉教(1529〜31年)」は前面に処刑を指揮する皇帝が描かれているが、そのモデルはミケランジェロの「ジュリアーノ・デ・メディチ(メディチ礼拝堂 1520〜34年)」。メディチ家の公子が処刑命令者として描かれている。
ポントルモは、1546年から死の年(1556/57)まで、フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂内陣にクレメンス7世の意を受けて、ミケランジェロの「最後の審判」に匹敵する壁画を描いた。習作素描が残されているが、作品は18世紀に破壊されてしまった。ポントルモが退廃したマニエラの模倣者と評価されていた時代だった。
世界美術大全集15 マニエリスム
ポントルモ 1 2 3 人物略歴
フィレンツェ ウフィツィ美術館素描版画室
