
カザーク支持からウクライナ「併合」へ
ボグダン・フメリニツキーはモスクワのツァーリの支援のもとで、独立したカザーク共和国樹立をめざしたらしい。
1648年の蜂起では、中世後期以来ウクライナに住んでいた「東欧ユダヤ人」約10万人が犠牲になったとされる。キリスト教徒のユダヤ人憎悪に加えて、彼らがポーランド貴族の領地管理人や居酒屋の経営者として、周辺の農民から反感をもたれていたためだった。
ロシアにとってカザークを支持することは、ポーランドとの戦争を意味していた。1653年2月、総主教にニコンが就任したことを機会に、アレクセイはカザーク支持を決めた。
1648年 ウクライナ・コサックの蜂起と「大洪水」
1640年代
世界各国史22 ロシア史
1648年の蜂起では、中世後期以来ウクライナに住んでいた「東欧ユダヤ人」約10万人が犠牲になったとされる。キリスト教徒のユダヤ人憎悪に加えて、彼らがポーランド貴族の領地管理人や居酒屋の経営者として、周辺の農民から反感をもたれていたためだった。
ロシアにとってカザークを支持することは、ポーランドとの戦争を意味していた。1653年2月、総主教にニコンが就任したことを機会に、アレクセイはカザーク支持を決めた。
1648年 ウクライナ・コサックの蜂起と「大洪水」
1640年代
世界各国史22 ロシア史
1654年1月、フメリニツキーはウクライナに対するツァーリの主権を認め、忠誠を誓った。ロシアはポーランドとの13年戦争に突入した。
ポーランドとロシアの戦争が始まると、スウェーデンが介入した。スウェーデン軍はポーランド深くに侵攻し、各地に大きな打撃を与えた。「大洪水」と呼ばれたこの侵略から、1世紀余り後の「東欧の大国ポーランドの解体」が始まったともされる。ロシアもスウェーデンに宣戦したが、カディスの和平で現状維持が確認された。1667年にポーランドと結ばれたアンドルソヴォの和平で、ロシアはスモレンスクを含む西部を取り戻し、ウクライナ左岸とキエフの町を得た。「併合」されたウクライナには政治的社会的に広範な自治権が保障されていた。
ポーランドとロシアの戦争が始まると、スウェーデンが介入した。スウェーデン軍はポーランド深くに侵攻し、各地に大きな打撃を与えた。「大洪水」と呼ばれたこの侵略から、1世紀余り後の「東欧の大国ポーランドの解体」が始まったともされる。ロシアもスウェーデンに宣戦したが、カディスの和平で現状維持が確認された。1667年にポーランドと結ばれたアンドルソヴォの和平で、ロシアはスモレンスクを含む西部を取り戻し、ウクライナ左岸とキエフの町を得た。「併合」されたウクライナには政治的社会的に広範な自治権が保障されていた。