
ウクライナ・コサックの蜂起と「大洪水」
1648年春、ボフダン・フミェルニツキが率いるコサックが、クリミア・タタールと組んで大規模な蜂起を起こした。蜂起は農民層も含めてウクライナ全域に広がった。5月にヴワディスワフ4世が死去し、「共和国」は11月に前国王の異母弟ヤン・カジミエシ・ヴァーザを国王に選出した。ヤン2世カジミエシ(在位1648〜68)。
ヤン・カジミエシは49年、フミェルニツキと和約を結んだが一時的なものだった。農民の反乱はマウォポルスカ南部にも広がった。ウクライナのポーランドからの解放を目指すフミェルニツキは、1654年1月、ロシアと条約を結び、コサックの自治の維持とツァーリの宗主権を認めた。タタールはロシアの勢力拡大を警戒してポーランドとの同盟を結んだ。54年夏、ロシア軍は「共和国」領内に侵入し、翌年にはヴィルノに達し、コサック軍もヴィスワ川近くに進んだ。
1655年夏、「共和国」の苦境を見た、カール10世グスタフが率いるスウェーデン軍がヴィエルコポルスカとリトアニアから侵攻してきた。有力マグナートが支持して、国土の大半が占領され、ワルシャワ、クラクフが陥落し、ヤン・カジミエシはシロンスクに避難した。民衆はスウェーデンに抵抗し、56年1月にヤン・カジミエシが帰還すると反撃を開始した。
ヤン・カジミエシは49年、フミェルニツキと和約を結んだが一時的なものだった。農民の反乱はマウォポルスカ南部にも広がった。ウクライナのポーランドからの解放を目指すフミェルニツキは、1654年1月、ロシアと条約を結び、コサックの自治の維持とツァーリの宗主権を認めた。タタールはロシアの勢力拡大を警戒してポーランドとの同盟を結んだ。54年夏、ロシア軍は「共和国」領内に侵入し、翌年にはヴィルノに達し、コサック軍もヴィスワ川近くに進んだ。
1655年夏、「共和国」の苦境を見た、カール10世グスタフが率いるスウェーデン軍がヴィエルコポルスカとリトアニアから侵攻してきた。有力マグナートが支持して、国土の大半が占領され、ワルシャワ、クラクフが陥落し、ヤン・カジミエシはシロンスクに避難した。民衆はスウェーデンに抵抗し、56年1月にヤン・カジミエシが帰還すると反撃を開始した。
カール10世はフミェルニツキ、ブランデンブルク選帝侯、トランシルヴァニア公にポーランド分割を提案した。「共和国」はロシアと休戦し、デンマークと同盟、プロイセン公国の宗主権を放棄することで、ブランデンブルク選帝侯をスウェーデン側から切り離した。1660年、スウェーデン軍はリヴォニア北部を除く占領地から撤退した。
ウクライナでは、1657年にフミェルニツキが死去し、親ポーランドの頭領が就任した。1658年に「ハジャチ合同」が同意された。コサック長老にシュラフタ位を認め、ルーシ(ウクライナ)をポーランド、リトアニアとともに「共和国」の構成部分とすることになった。しかし、ウクライナのポーランドへの不信感が強く、1659年にはロシアと結び、ポーランドとロシアの戦争が再燃した。1667年、講和が結ばれ、スモレンスクなど東方の領土の一部とウクライナのドニエプル川左岸、キエフはロシア領となった。
ウクライナの反乱とスウェーデン軍の侵入(シェンキェーヴィチの小説の題名から「大洪水」と呼ばれる)による危機を「共和国」は生き延びたが、人口の3割が失われ、国土は荒廃し国際的地位は低下した。
1640年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
ウクライナでは、1657年にフミェルニツキが死去し、親ポーランドの頭領が就任した。1658年に「ハジャチ合同」が同意された。コサック長老にシュラフタ位を認め、ルーシ(ウクライナ)をポーランド、リトアニアとともに「共和国」の構成部分とすることになった。しかし、ウクライナのポーランドへの不信感が強く、1659年にはロシアと結び、ポーランドとロシアの戦争が再燃した。1667年、講和が結ばれ、スモレンスクなど東方の領土の一部とウクライナのドニエプル川左岸、キエフはロシア領となった。
ウクライナの反乱とスウェーデン軍の侵入(シェンキェーヴィチの小説の題名から「大洪水」と呼ばれる)による危機を「共和国」は生き延びたが、人口の3割が失われ、国土は荒廃し国際的地位は低下した。
1640年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
