
西インド会社 北米など
1609年オランダ東インド会社の依頼を受けて、大西洋から太平洋へ出る航路を探していたハドソン(イギリス人)が、のちのハドソン川とマンハッタン島を発見した。この附近はニーウ・ネーデルラントと名付けられ、1614年にはニーウ・ネーデルラント会社がつくられて毛皮の取引をおこなった。1615年にはマンハッタン島にナッサウ要塞を築き、のちに西インド会社が引き継いだ。1625年にデラウェア先住民よりマンハッタン島を購入して、ニーウ・アムステルダムとし、順調に発展して1635年には都市に昇格した。ハドソン川上流のベーフェルウェイク(オールバニー)にもオランイェ要塞が築かれ、オランダの植民地になった。
ニーウ・アムステルダムは1664年9月、イギリス艦隊の攻撃を受けて降伏し(第二次イギリス戦争)、67年のブレダー条約でイギリス領となりニューヨークと改名された。74年のウェストミンスター条約でオランダは北アメリカから撤退した。ニューヨークにはハーレム、ブルックリンといったオランダの地名が残っている。
西インド会社 対スペイン戦争 西インド会社 ブラジル
1620年代 世界各国史14 スイス・ベネルクス史
ニーウ・アムステルダムは1664年9月、イギリス艦隊の攻撃を受けて降伏し(第二次イギリス戦争)、67年のブレダー条約でイギリス領となりニューヨークと改名された。74年のウェストミンスター条約でオランダは北アメリカから撤退した。ニューヨークにはハーレム、ブルックリンといったオランダの地名が残っている。
西インド会社 対スペイン戦争 西インド会社 ブラジル
1620年代 世界各国史14 スイス・ベネルクス史
南米のガイアナ海岸にオランダ人は1616年から進出し、砂糖キビを栽培していた。スリナムはイギリス人の入植地だったが、第二次イギリス戦争でオランダが占領してゼーランディア要塞を築いた。67年のブレダー条約でニューヨークと交換するかたちでオランダ領になった。スリナムの砂糖プランテーションは黒人奴隷の供給を受けて発展した。1720年代からはコーヒー、綿花の栽培もおこなわれ、オランダの重要なプランテーション植民地となった。1640年代から小アンティル諸島のいくつかの島を占領し、西インド会社が統治していた。
アフリカ南端の喜望峰に東インド会社の依託を受けたオランダ商人が、1652年に要塞を築き、食糧生産を試みたのがカープスタット(ケープタウン)の始まりだった。アジアへ向かうオランダ船は、喜望峰を発って東に進みジャワの南で北上する航路をとっていたため、喜望峰での補給が必要だった。1670年以降会社はオランダ人農民を入植させ、穀物生産や牧畜をおこなわせて、人口も増えていった。喜望峰は西インド会社の独占地域だったが、1674年から東インド会社の独占地域とされ、79年からは総督が任命された。
アフリカ南端の喜望峰に東インド会社の依託を受けたオランダ商人が、1652年に要塞を築き、食糧生産を試みたのがカープスタット(ケープタウン)の始まりだった。アジアへ向かうオランダ船は、喜望峰を発って東に進みジャワの南で北上する航路をとっていたため、喜望峰での補給が必要だった。1670年以降会社はオランダ人農民を入植させ、穀物生産や牧畜をおこなわせて、人口も増えていった。喜望峰は西インド会社の独占地域だったが、1674年から東インド会社の独占地域とされ、79年からは総督が任命された。