
西インド会社設立 対スペイン戦争
1621年4月、休戦期限が終わり対スペイン戦争が再開された。即位直後のスペイン国王フェリペ4世はオランダとの通商を全面的に禁止した。オランダはスペインの資金源を断つために、東西両インド(ポルトガルの拠点も含む)で攻勢にでた。6月には対スペイン強硬派の商人たちによって西インド会社が設立された。西インド諸島やブラジルなどでスペイン・ポルトガル船に私掠活動をおこなう、貿易・植民会社というより私掠業のための戦闘組織だった。オランダはフランドル海岸を海上封鎖し、南部諸州への補給を断つ動きも見せて、何度か大規模な海戦も繰り返された。
1625年4月にマウリッツを継いだフレデリック・ヘンドリック(オランイェ公 マウリッツの弟で5州の州総督)が南部の都市を奪い、現在のベルギーとの国境近くまで領土を拡大した。南部での戦いを有利に進めるために、フランスと1624年6月に相互防衛条約(コンピエーニュ条約)を結び、35年2月にはスペイン領の南部諸州を言語境界線で互いに分け合うことをねらった攻守同盟(パリ条約 44年に更新)を結んだ。これによってフランスも南部の都市を攻略した。
1625年4月にマウリッツを継いだフレデリック・ヘンドリック(オランイェ公 マウリッツの弟で5州の州総督)が南部の都市を奪い、現在のベルギーとの国境近くまで領土を拡大した。南部での戦いを有利に進めるために、フランスと1624年6月に相互防衛条約(コンピエーニュ条約)を結び、35年2月にはスペイン領の南部諸州を言語境界線で互いに分け合うことをねらった攻守同盟(パリ条約 44年に更新)を結んだ。これによってフランスも南部の都市を攻略した。
1621年の休戦明けからスペインとの和平交渉は続けられていたが、46年1月からドイツで交渉が進められ、1648年1月に講和条約(ミュンスター条約、ウェストファリア条約)が成立した。スペインはオランダの独立を承認し、国境線が画定された。アントウェルペンに通じるスヘルデ川はオランダによって封鎖されることになり、アントウェルペンの貿易港としての再生はなくなった。またヨーロッパ外の領土については現状が維持されることになった。
オランダ共和国は改革派の国として国際的に独立が承認された。オランダでは1648年6月5日に和平が発表されたが、80年前にホールネ伯、エフモント伯が処刑された日だった。オランダでは少数派の改革派が権力を握り続けることになった。共和制の下で各州が主権を握り、各州の伝統と利益を優先させたため、近代的な統一国家を形成するまでにはならなかった。
西インド会社 ブラジル 西インド会社 北米など
1620年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
オランダ共和国は改革派の国として国際的に独立が承認された。オランダでは1648年6月5日に和平が発表されたが、80年前にホールネ伯、エフモント伯が処刑された日だった。オランダでは少数派の改革派が権力を握り続けることになった。共和制の下で各州が主権を握り、各州の伝統と利益を優先させたため、近代的な統一国家を形成するまでにはならなかった。
西インド会社 ブラジル 西インド会社 北米など
1620年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史