
オランダ独立戦争1
フェリーペ2世は父カルロスの故地、低地地方(ネーデルラント)の統治には苦労した。フランドルを中心に毛織物工業が発展し、ブルッヘ、アントウェルペンは国際的中継港となっていた。ここにはドイツからルター派と再洗礼派、フランスからカルヴァン派が入っていて、商人たちに浸透していた。カルロス1世は、これらの異端を攻撃し、帝国政策のために大きな財政負担を強いたが、フランドル出身だったため、人々から敬意をはらわれていた。しかしフェリーペの統治は、そのスペイン的政策(異端審問制による新教徒弾圧、グランヴェルほか外国人による性急な集権化)のために反発を招いてしまった。
1566年にカルヴァン派が聖画像破壊運動を起こすと、フェリーペによって派遣されたアルバ公は「血の評議会」を設けて、暴動参加者への過酷な弾圧をおこなった。このような状況で68年、ドイツに逃れていたオランイェ公ウィレムがオランダに侵攻した。「80年戦争」「オランダ独立戦争」(1568〜1648年)と呼ばれる戦争が始まった。それは低地地方の特権回復を求めていたもので、初めからオランダの独立をめざしていたものではなかった。
旧教徒が多い南部諸州は79年に離脱したが、北部7州はユトレヒト同盟を結び、81年にはフェリーペ2世の統治権を否認した。事実上のオランダ独立宣言だった。この戦いは17世紀半ばまで続き、スペインの国際的優位を壊していく。
1560年代 オランダ独立戦争2
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
1566年にカルヴァン派が聖画像破壊運動を起こすと、フェリーペによって派遣されたアルバ公は「血の評議会」を設けて、暴動参加者への過酷な弾圧をおこなった。このような状況で68年、ドイツに逃れていたオランイェ公ウィレムがオランダに侵攻した。「80年戦争」「オランダ独立戦争」(1568〜1648年)と呼ばれる戦争が始まった。それは低地地方の特権回復を求めていたもので、初めからオランダの独立をめざしていたものではなかった。
旧教徒が多い南部諸州は79年に離脱したが、北部7州はユトレヒト同盟を結び、81年にはフェリーペ2世の統治権を否認した。事実上のオランダ独立宣言だった。この戦いは17世紀半ばまで続き、スペインの国際的優位を壊していく。
1560年代 オランダ独立戦争2
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
