
カール5世と低地地方
1530年マルグリートが死去、ハンガリー王の寡婦、妹マリが執政として低地地方統治にあたった。1531年以降カールはマリを補佐するためにブリュッセルに諮問機関をおいた。
国事評議院 外交・戦争・和平
内務評議院 立法を統括
財務評議院 財政を担当
これらで一体的統治構造の基礎がつくられ、以後ブリュッセルは低地地方の行政の首都となった。
領域的征服も続けられた。
1524年 フリースラント(ヘルレ公カーレルの支援で長く抵抗)
1528年 ユトレヒト司教領、オーフェルエイセル
1536年 フローニンゲン、ドレンテ
1543年 ヘルレ公国を併合 38年カーレル暗殺
低地地方 17州
公 ブラーバンド、リンブルフ、ルクセンブルク、ヘルレ
伯 フランドル、アルトワ、エノー、ナミュール、ホラント、ゼーラント、ズトフェン
アントウェルペン辺境伯
領主 メヘレン、ユトレヒト、オーフェルエイセル、フリースラント、フローニンゲン
1548年の帝国議会で17州と称される地域がブルゴーニュ家の支配圏を構成することが確認された。カールの17の称号は諸領邦連合だったが、地方自立主義を容認しながら統一の方向もさぐり
1549年、低地地方が「永久に不可分である」としてハブスブルク家に継承されることを定めた国事詔書を発布、全国議会で承認された。カールの治世をとおして「われらの低地諸国」という観念が生まれ、民族的意識が形成されていった。
1555年、55才になったカールは低地地方を、翌56年にはスペイン王位を息子フェリペ2世にゆずり、スペインの修道院で余生を送った。
国事評議院 外交・戦争・和平
内務評議院 立法を統括
財務評議院 財政を担当
これらで一体的統治構造の基礎がつくられ、以後ブリュッセルは低地地方の行政の首都となった。
領域的征服も続けられた。
1524年 フリースラント(ヘルレ公カーレルの支援で長く抵抗)
1528年 ユトレヒト司教領、オーフェルエイセル
1536年 フローニンゲン、ドレンテ
1543年 ヘルレ公国を併合 38年カーレル暗殺
低地地方 17州
公 ブラーバンド、リンブルフ、ルクセンブルク、ヘルレ
伯 フランドル、アルトワ、エノー、ナミュール、ホラント、ゼーラント、ズトフェン
アントウェルペン辺境伯
領主 メヘレン、ユトレヒト、オーフェルエイセル、フリースラント、フローニンゲン
1548年の帝国議会で17州と称される地域がブルゴーニュ家の支配圏を構成することが確認された。カールの17の称号は諸領邦連合だったが、地方自立主義を容認しながら統一の方向もさぐり
1549年、低地地方が「永久に不可分である」としてハブスブルク家に継承されることを定めた国事詔書を発布、全国議会で承認された。カールの治世をとおして「われらの低地諸国」という観念が生まれ、民族的意識が形成されていった。
1555年、55才になったカールは低地地方を、翌56年にはスペイン王位を息子フェリペ2世にゆずり、スペインの修道院で余生を送った。