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コルテス政略誌13
スペイン兵が堤道に最初の携帯用の橋を架けた時、メキシコ軍のラッパと笛が鳴り響き猛烈な攻撃が始まった。ボートに乗ったメキシコ兵は湖上から攻撃し、堤道の上にも間隔をおいてメキシコ兵が立ちふさがっていた。
やがて携帯用の橋が破壊され、スペイン軍は二分された。コルテスは前半の部隊約500人を率いてタクバに逃れた。残りのスペイン軍を救うために堤道へ向かったコルテスは後衛のアルバラードと出会った。
彼の報告は、スペイン兵全員約800人が殺されるか、捕らえられた。大砲や宝物の大部分は失われ、捕虜の王侯も殺された、というものだった。コルテスはアルバラードとタクバに戻った。80頭の馬のうち生き残ったのは23頭で、トラシュカーラ人もその多くが殺されるか、捕らえられた。
タクバの傷ついたスペイン軍はトラシュカーラ人の勧めで6キロメートルほど先のトトルテペク(七面鳥の山)にある神殿ピラミッドへ向かった。
朝になるとメキシコ軍が攻撃してきた。負傷と空腹で絶望的な状況のスペイン軍はなんとか攻撃を退けた。深夜スペイン軍はかがり火をつけたまま、トトルテペクを出て、トラシュカーラをめざした。
メキシコ軍の主力部隊は捕虜を生け贄にする儀式で忙しく、コルテスの軍を追跡できなかったらしい。
7月7日オトゥンバにメキシコ軍主力部隊が集まり、スペイン軍との戦いになった。敵軍の指導者を殺すことを第一としたスペイン兵がメキシコ軍の最高司令官「蛇女」を殺したことで戦いは終わった。
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首都に帰ってきたコルテス軍を四方から包囲攻撃するアステカ軍
「リエンソ・デ・トラスカラ」 古代アステカ王国 中公新書
やがて携帯用の橋が破壊され、スペイン軍は二分された。コルテスは前半の部隊約500人を率いてタクバに逃れた。残りのスペイン軍を救うために堤道へ向かったコルテスは後衛のアルバラードと出会った。
彼の報告は、スペイン兵全員約800人が殺されるか、捕らえられた。大砲や宝物の大部分は失われ、捕虜の王侯も殺された、というものだった。コルテスはアルバラードとタクバに戻った。80頭の馬のうち生き残ったのは23頭で、トラシュカーラ人もその多くが殺されるか、捕らえられた。
タクバの傷ついたスペイン軍はトラシュカーラ人の勧めで6キロメートルほど先のトトルテペク(七面鳥の山)にある神殿ピラミッドへ向かった。
朝になるとメキシコ軍が攻撃してきた。負傷と空腹で絶望的な状況のスペイン軍はなんとか攻撃を退けた。深夜スペイン軍はかがり火をつけたまま、トトルテペクを出て、トラシュカーラをめざした。
メキシコ軍の主力部隊は捕虜を生け贄にする儀式で忙しく、コルテスの軍を追跡できなかったらしい。
7月7日オトゥンバにメキシコ軍主力部隊が集まり、スペイン軍との戦いになった。敵軍の指導者を殺すことを第一としたスペイン兵がメキシコ軍の最高司令官「蛇女」を殺したことで戦いは終わった。
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「リエンソ・デ・トラスカラ」 古代アステカ王国 中公新書
翌日、スペイン軍はトラシユカーラの境界を越えた。ベルナールによると兵士440人、馬20頭、弩12梃、小銃7梃の兵力だった。火薬はなく、兵士は傷だらけだった。トラシュカーラ人が友好的かどうかも解らなかった。
7月9日トラシュカーラの指導者がやってきてコルテスたちを歓迎してくれた。12日スペイン人はトラシュカーラの町に入った。1カ月ほどして傷が癒えるとベラクルスとの連絡路を確保するため「セグラ・デ・ラ・フロンテラ」という要塞を造った。この頃テノチティトランでは天然痘が発生し、クイトラワクを含む多くの人々が死んだ。王座にはクアウテモスツィン侯が就いた。
以前テレビでトラシュカーラ人が最後まで友好的だったのは、初めてスペイン軍と戦った後で彼らに伝染病が広がり、それを神の罰と考えたからではないかという説が紹介されていた。
8月から11月の間に多くの船がベラクルスに着いた。その中に事情を知らないキューバ総督ベラスケスがナルバエスに宛てて送った船があり、兵士、馬、火薬などが補給できた。また個人で貿易をしているスペイン船からも火薬や武器を購入できた。
コルテスはテノチティトラン攻撃のため13隻の小帆船を造らせた。部品が80キロメートル離れたテスココに運ばれ、そこで組み立てられて進水する計画だった。
12月後半コルテスはテノチティトラン攻撃のため、テスココに進軍した。トラシュカーラ人は1万人の兵士を提供した。
大航海時代年表 コルテス12 コルテス14
堤道を伝って退却するスペイン軍とそれを攻撃するアステカ軍
「リエンソ・デ・トラスカラ」 古代アステカ王国 中公新書
7月9日トラシュカーラの指導者がやってきてコルテスたちを歓迎してくれた。12日スペイン人はトラシュカーラの町に入った。1カ月ほどして傷が癒えるとベラクルスとの連絡路を確保するため「セグラ・デ・ラ・フロンテラ」という要塞を造った。この頃テノチティトランでは天然痘が発生し、クイトラワクを含む多くの人々が死んだ。王座にはクアウテモスツィン侯が就いた。
以前テレビでトラシュカーラ人が最後まで友好的だったのは、初めてスペイン軍と戦った後で彼らに伝染病が広がり、それを神の罰と考えたからではないかという説が紹介されていた。
8月から11月の間に多くの船がベラクルスに着いた。その中に事情を知らないキューバ総督ベラスケスがナルバエスに宛てて送った船があり、兵士、馬、火薬などが補給できた。また個人で貿易をしているスペイン船からも火薬や武器を購入できた。
コルテスはテノチティトラン攻撃のため13隻の小帆船を造らせた。部品が80キロメートル離れたテスココに運ばれ、そこで組み立てられて進水する計画だった。
12月後半コルテスはテノチティトラン攻撃のため、テスココに進軍した。トラシュカーラ人は1万人の兵士を提供した。
大航海時代年表 コルテス12 コルテス14
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「リエンソ・デ・トラスカラ」 古代アステカ王国 中公新書