コルテス政略誌11
コルテスが苦境に陥っている時、船がサン・ホァン・デ・ウルアに着いたという連絡があった。コルテスは初め、スペインに派遣していたプエルトカレロが帰ってきたと期待した。しかし、それはキューバ総督ベラスケスがコルテスを捕らえるために派遣したナルバエスを司令官とする軍隊だった。兵員は1300人コルテスの部隊の4倍で1520年4月中旬にメキシコに着いた。
連絡を受けた時コルテスはデ・レオン大尉指揮下に150人を、デ・ランゲル大尉の指揮下に150人を偵察などに派遣していた。 モンテスーマも通常の仕事をしていたため船が現れたことを知っていた。そしてコルテスとナルバエスの関係を考えていた。
1519年4月末にコルテスは使者をスペインに派遣していた。使者のプエルトカレロとモンテホはキューバに立ち寄らず、スペインに直行するよう命じられていた。しかし彼らはキューバに立ち寄り、コルテスが黄金を手に入れたことをスペイン人に伝えた。その噂はベラスケスにも届いた。ベラスケスは使者を捕らえようとしたが、彼らは脱出し10月スペインに着いた。ベラスケスが書いたコルテスを裏切り者とする手紙は早船で送られ、宮廷の有力者の友人により早く届けられていた。二人の使者がカルロス1世に謁見できたのは1520年4月になってからだった。国王はコルテスとベラクルスの町に対し何の決定もしなかった。コルテスは国王の代理者として認めてはもらえなかった。
一方ベラスケスは船と人員を集めた。20隻の船と1300人の兵士、10門の野砲、80頭の馬、80人の小銃兵などからなる軍隊を作り上げた。ベラスケスは出発の許可を求めたが、エスパニョーラ島の副王はスペイン人同士の戦いを禁じた。ベラスケスは穏便な話し合いをするという条件で艦隊派遣の許可を受けた。副王の代理人アイロンが司令官ナルバエスを監視するために同行した。艦隊は1520年3月キューバを出港し、4月半ばにサン・ホァン・デ・ウルアに着いた。
ナルバエスはサン・ホァン・デ・ウルアでアイロンを帰国させることに成功した。
連絡を受けた時コルテスはデ・レオン大尉指揮下に150人を、デ・ランゲル大尉の指揮下に150人を偵察などに派遣していた。 モンテスーマも通常の仕事をしていたため船が現れたことを知っていた。そしてコルテスとナルバエスの関係を考えていた。
1519年4月末にコルテスは使者をスペインに派遣していた。使者のプエルトカレロとモンテホはキューバに立ち寄らず、スペインに直行するよう命じられていた。しかし彼らはキューバに立ち寄り、コルテスが黄金を手に入れたことをスペイン人に伝えた。その噂はベラスケスにも届いた。ベラスケスは使者を捕らえようとしたが、彼らは脱出し10月スペインに着いた。ベラスケスが書いたコルテスを裏切り者とする手紙は早船で送られ、宮廷の有力者の友人により早く届けられていた。二人の使者がカルロス1世に謁見できたのは1520年4月になってからだった。国王はコルテスとベラクルスの町に対し何の決定もしなかった。コルテスは国王の代理者として認めてはもらえなかった。
一方ベラスケスは船と人員を集めた。20隻の船と1300人の兵士、10門の野砲、80頭の馬、80人の小銃兵などからなる軍隊を作り上げた。ベラスケスは出発の許可を求めたが、エスパニョーラ島の副王はスペイン人同士の戦いを禁じた。ベラスケスは穏便な話し合いをするという条件で艦隊派遣の許可を受けた。副王の代理人アイロンが司令官ナルバエスを監視するために同行した。艦隊は1520年3月キューバを出港し、4月半ばにサン・ホァン・デ・ウルアに着いた。
ナルバエスはサン・ホァン・デ・ウルアでアイロンを帰国させることに成功した。
ベラクルスの指揮者サンドバルにナルバエスは降伏を求める軍使を派遣した。サンドバルは彼らを捕らえ、トトナコ人がコルテスのもとに彼らを運んだ。コルテスは彼らをねぎらい、もてなし、宝の山を見せ、いくらかの黄金を渡した。ベルナールは「出発してきたときは獅子であった彼らも、まったくロバのように飼いならされて帰っていった」と記している。
1520年5月始め、コルテスはテノチティトランにアルバラードを隊長として80人のスペイン人と400人のトラシュカーラ人を残し、宿舎の宮殿を要塞と変え食料を補給してベラクルスへ向かった。モンテスーマはコルテスに5000人の兵士の提供を申し出たが、コルテスは感謝しながらも断っている。
この前にコルテスは、神父デ・ラ・メルセドを派遣し和平を求め、かなりの量の金も用意して主だった人たちに渡している。金による買収でコルテスは半ば戦いに勝っていた。
チョルーラに着いたコルテスはトラシュカーラに6000人の兵士の提供を求めたが、スペイン人を相手には戦えないと拒否されてしまった。途中でデ・レオンとデ・ランゲルの部隊と合流し、330人の部隊でセンポアラの近くに到着した。40人の部下を連れたサンドバルと会い最近の情報を得たコルテスは、デ・レオンをナルバエスのもとに派遣し、トトナコ人に2000人の兵士を求めた。
5月29日の夜明け前、トトナコ人の増援もないままコルテスはセンポアラのナルバエス軍に夜襲をかけた。ナルバエスは片目を槍で突かれて囚われ、彼の部下たちも投降してきた。朝には戦いが終わっていた。
コルテスはベラスケスが集めた部隊を自らの贈援軍に変えた。そしてベラスケスにこの結果が伝えられないように船を管理した。
コルテスはテノチティトランに戻るときに部隊を分け、植民地にするための準備も考えていたらしい。しかしそのときに首都でメキシコ人が反乱を起こしたという知らせが二人のトラシュカーラ人によって伝えられた。
大航海時代年表 コルテス10 コルテス12
1520年5月始め、コルテスはテノチティトランにアルバラードを隊長として80人のスペイン人と400人のトラシュカーラ人を残し、宿舎の宮殿を要塞と変え食料を補給してベラクルスへ向かった。モンテスーマはコルテスに5000人の兵士の提供を申し出たが、コルテスは感謝しながらも断っている。
この前にコルテスは、神父デ・ラ・メルセドを派遣し和平を求め、かなりの量の金も用意して主だった人たちに渡している。金による買収でコルテスは半ば戦いに勝っていた。
チョルーラに着いたコルテスはトラシュカーラに6000人の兵士の提供を求めたが、スペイン人を相手には戦えないと拒否されてしまった。途中でデ・レオンとデ・ランゲルの部隊と合流し、330人の部隊でセンポアラの近くに到着した。40人の部下を連れたサンドバルと会い最近の情報を得たコルテスは、デ・レオンをナルバエスのもとに派遣し、トトナコ人に2000人の兵士を求めた。
5月29日の夜明け前、トトナコ人の増援もないままコルテスはセンポアラのナルバエス軍に夜襲をかけた。ナルバエスは片目を槍で突かれて囚われ、彼の部下たちも投降してきた。朝には戦いが終わっていた。
コルテスはベラスケスが集めた部隊を自らの贈援軍に変えた。そしてベラスケスにこの結果が伝えられないように船を管理した。
コルテスはテノチティトランに戻るときに部隊を分け、植民地にするための準備も考えていたらしい。しかしそのときに首都でメキシコ人が反乱を起こしたという知らせが二人のトラシュカーラ人によって伝えられた。
大航海時代年表 コルテス10 コルテス12