
クラーナハとルター
1517年から宗教改革を始めたルター。1520年にクラーナハはルターの肖像を3点描き、21/22年にはフリードリヒ賢明公によってヴァルトブルク城に地方貴族イェルクとして保護されたルターを描いている。ルターの新約聖書のドイツ語訳をクラーナハが工房の一部を貸していた印刷工場で印刷し、木版画挿絵はクラーナハの工房で制作して、1522年9月にヴィッテンベルクで出版した。
1522年3月、フリードリヒ賢明公はルターをヴィッテンベルクに呼び戻した。過激派によって起きた聖像破壊運動を抑えさせるためだった。ルターはモーセ・十戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」という部分を、モーセが蛇の像を造ったことを理由に「ここで禁じられているのは像を礼拝することであって、それを造ることではない」と説明している。
1525年にはルターの結婚記念に夫妻の肖像を描き、結婚の証人にもなっている。
1522年3月、フリードリヒ賢明公はルターをヴィッテンベルクに呼び戻した。過激派によって起きた聖像破壊運動を抑えさせるためだった。ルターはモーセ・十戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」という部分を、モーセが蛇の像を造ったことを理由に「ここで禁じられているのは像を礼拝することであって、それを造ることではない」と説明している。
1525年にはルターの結婚記念に夫妻の肖像を描き、結婚の証人にもなっている。
ザクセン選帝侯の懐柔策だったらしいが、クラーナハは反宗教改革の有力者である枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(1490〜1545)のための仕事もしている。
鉱夫の息子ルターは肖像画を描かれるような特権階級の生まれではなかった。それでも彼の肖像画は500点近くが残されていて、それらはクラーナハの様式で描かれている。(クラーナハの工房で制作された肖像画の模写が多かったということ?)
世界美術大全集14 北方ルネサンス 人物略歴
フリードリヒ賢明公・弟ヨハン堅忍公 クラーナハクラーナハ
マルティン・ルターとカタリーナ・フォン・ボーラの肖像
1525年 板 テンペラ 直径各10cm モノクロ
スイス バーゼル美術館
鉱夫の息子ルターは肖像画を描かれるような特権階級の生まれではなかった。それでも彼の肖像画は500点近くが残されていて、それらはクラーナハの様式で描かれている。(クラーナハの工房で制作された肖像画の模写が多かったということ?)
世界美術大全集14 北方ルネサンス 人物略歴
フリードリヒ賢明公・弟ヨハン堅忍公 クラーナハ
マルティン・ルターとカタリーナ・フォン・ボーラの肖像
1525年 板 テンペラ 直径各10cm モノクロ
スイス バーゼル美術館
