
クラーナハ
ルーカス・クラーナハ Lucas Cranach
1472〜1553
ニュルンベルクの北、コーブルクの東にある小都市クローナハで生まれた。デューラーより1歳年下。父はハンス・マーラーという無名の画家。1504年の「エジプトへの逃避途上の休息」以来マーラーではなくクラーナハという雅号が用いられている。
30歳の頃、クラーナハはウィーンに移っている。1502年にウィーンでデューラーの銅版画「荒野の聖ヒエロニムス(1498年頃)」の影響を受けた「悔悛する聖ヒエロニムス」を制作した。1504年かその翌年、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公(在位1486〜1525)の宮廷画家となって、ヴィッテンベルクに移住した。ヴィッテンベルクにはフリードリヒ賢明公が1502年に設立した大学があった。
1505年4月に宮廷から40フローリンを拝領している。記録にはLucas Maler von Cronachと記されている。1505年に木版画「心臓の付いた信仰の盾」を制作、翌年には三連祭壇画「聖女カタリナの殉教」を描いている。銅版画も制作しているが、技術的にデューラーよりも劣っている。1508年1月には皇帝マクシミリアンの名代フリードリヒ賢明公から最初の紋章を拝領している。
宮廷画家として多くの作品を制作したらしい。ヴィッテンベルク大学の法律教授は、1509年に出版した著作の献辞として「才能に恵まれ迅速にして完全なザクセン公の画家ルーカス・クラーナハに寄す」を書いている。
1529年には「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の鹿狩り」という狩猟図を描いている。そのほか教会的ではない、教訓的意味を持った作品を制作している。
世界美術大全集14 北方ルネサンス 人物略歴
フリードリヒ賢明公・弟ヨハン堅忍公 クラーナハとルター
1472〜1553
ニュルンベルクの北、コーブルクの東にある小都市クローナハで生まれた。デューラーより1歳年下。父はハンス・マーラーという無名の画家。1504年の「エジプトへの逃避途上の休息」以来マーラーではなくクラーナハという雅号が用いられている。
30歳の頃、クラーナハはウィーンに移っている。1502年にウィーンでデューラーの銅版画「荒野の聖ヒエロニムス(1498年頃)」の影響を受けた「悔悛する聖ヒエロニムス」を制作した。1504年かその翌年、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公(在位1486〜1525)の宮廷画家となって、ヴィッテンベルクに移住した。ヴィッテンベルクにはフリードリヒ賢明公が1502年に設立した大学があった。
1505年4月に宮廷から40フローリンを拝領している。記録にはLucas Maler von Cronachと記されている。1505年に木版画「心臓の付いた信仰の盾」を制作、翌年には三連祭壇画「聖女カタリナの殉教」を描いている。銅版画も制作しているが、技術的にデューラーよりも劣っている。1508年1月には皇帝マクシミリアンの名代フリードリヒ賢明公から最初の紋章を拝領している。
宮廷画家として多くの作品を制作したらしい。ヴィッテンベルク大学の法律教授は、1509年に出版した著作の献辞として「才能に恵まれ迅速にして完全なザクセン公の画家ルーカス・クラーナハに寄す」を書いている。
1529年には「ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の鹿狩り」という狩猟図を描いている。そのほか教会的ではない、教訓的意味を持った作品を制作している。
世界美術大全集14 北方ルネサンス 人物略歴
フリードリヒ賢明公・弟ヨハン堅忍公 クラーナハとルター
クラーナハは41歳の時にザクセン選帝侯領内の都市ゴータの市参事会員の娘と結婚している。長男ハンスは1533年から父の工房の手伝いを始めたが、1537年旅先のボローニャで急死している。次男ルーカスは1535年から父の工房で働き、37年以降活躍が目立ってきた。1537年には紋章の一部を変更し、65歳のクラーナハは任期1年のヴィッテンベルク市長に就任した。40年、43年にも市長になっている。作品の量産体制を整えるために、工房の組織を変えたらしい。
結婚した1512/13年に市庁舎前広場前の通りに面した、薬屋だった建物を購入した。1519年に市参事会員になり、翌年薬局営業許可を得て薬局で大きな収益を得るとともに、工房の一部を印刷工場に貸している。1523年には印刷業も始めこれにも成功している。
しかし主君に対する忠誠心を失わず、1552年に選帝侯の地位と大半の領土を失ったヨハン・フリードリヒ公がワイマールに移ると、それに随行し、同地の娘婿のもとで1553年、81歳で死去した。ワイマールのザンクト・ヤコプ墓地に墓が残っている。
クラーナハの紋章 背に蝙蝠(こうもり)の翼をつけた蛇が王冠をかぶり、口にルビーのついた指輪をくわえている。
1537年に蝙蝠の翼から、横向きに開く鳥の翼に変更された。
結婚した1512/13年に市庁舎前広場前の通りに面した、薬屋だった建物を購入した。1519年に市参事会員になり、翌年薬局営業許可を得て薬局で大きな収益を得るとともに、工房の一部を印刷工場に貸している。1523年には印刷業も始めこれにも成功している。
しかし主君に対する忠誠心を失わず、1552年に選帝侯の地位と大半の領土を失ったヨハン・フリードリヒ公がワイマールに移ると、それに随行し、同地の娘婿のもとで1553年、81歳で死去した。ワイマールのザンクト・ヤコプ墓地に墓が残っている。

1537年に蝙蝠の翼から、横向きに開く鳥の翼に変更された。