
ヒエロニムス・ボス 1
ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch
(1450頃〜1516)
本名はヒエロニムス・ファン・アーケン。生涯を過ごした都市、ス・ヘルトーヘンボスからボスと呼ばれているらしい。
初期フランドル絵画史の中頃に位置し、油絵・祭壇画・絵画技法などの形式はこの流れと一致している。しかし描かれている図像は民衆の生活や文化を映したものが多く、パトロンの注文によって描かれた他の画家の作品とは大きく異なっている。
アーヘンの画家を多く輩出している家系の出身で、ス・ヘルトーヘンボスに移住していたらしい。父アントニウスも画家で、手ほどきを受け、そのまま生まれ故郷で過ごしたしたと考えられている。当時のス・ヘルトーヘンボスは以前に考えられていたような片田舎ではなく、ネーデルラントのブリュッセル、アントウェルペン、ルーヴァンと並ぶ4大都市のひとつだった。オルガン製造や組鐘の鋳造といった音楽文化の拠点であり、大砲・ナイフなどの武器を鋳造する工業都市でもあった。
シント・ヤン聖堂を中心とした宗教文化があり、敬虔主義による静かな精神生活を求めるデヴォティオ・モデルナ(新しい信仰)の宗教運動もあった。ラテン語学校では人文主義が学ばれ、宗教運動による演劇のサークルも多かった。
(1450頃〜1516)
本名はヒエロニムス・ファン・アーケン。生涯を過ごした都市、ス・ヘルトーヘンボスからボスと呼ばれているらしい。
初期フランドル絵画史の中頃に位置し、油絵・祭壇画・絵画技法などの形式はこの流れと一致している。しかし描かれている図像は民衆の生活や文化を映したものが多く、パトロンの注文によって描かれた他の画家の作品とは大きく異なっている。
アーヘンの画家を多く輩出している家系の出身で、ス・ヘルトーヘンボスに移住していたらしい。父アントニウスも画家で、手ほどきを受け、そのまま生まれ故郷で過ごしたしたと考えられている。当時のス・ヘルトーヘンボスは以前に考えられていたような片田舎ではなく、ネーデルラントのブリュッセル、アントウェルペン、ルーヴァンと並ぶ4大都市のひとつだった。オルガン製造や組鐘の鋳造といった音楽文化の拠点であり、大砲・ナイフなどの武器を鋳造する工業都市でもあった。
シント・ヤン聖堂を中心とした宗教文化があり、敬虔主義による静かな精神生活を求めるデヴォティオ・モデルナ(新しい信仰)の宗教運動もあった。ラテン語学校では人文主義が学ばれ、宗教運動による演劇のサークルも多かった。
ス・ヘルトーヘンボス最大のシント・ヤン聖堂の団体の一つ、聖マリア兄弟会の記録に、1480年代から独立した画家(Maelre)として名前がでている。通例の親方(Meester)ではない。工房や弟子を持っていなかったのかもしれない。会の宴席のスポンサーになってもいて、各種イヴェントのデザインもおこなっていたらしい。妻は町の名士で財産家の娘で子供はいなかった。ボスは幼い頃に母親を亡くし、父親も彼が結婚した頃死去している。土地の所有者として有数の財産家だったことを示す納税記録も見つかっている。
1516年8月、ス・ヘルトーヘンボスで町の名士としてふさわしい、ボスの葬儀がおこなわれている。記録からは常識的・模範的な人物像がみられ、特異な図像のヒントはない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)と同時代の画家。
デューラーは、1520年にブリュッセルにあるナッサウ家を訪れ、ファン・デル・フースの絵画や調度品について記しているが、そこにあった「快楽の園」には触れていない。またス・ヘルトーヘンボスを訪れた際にもボスについての記述はない。
デューラー「ネーデルラント旅日記」は岩波文庫で読める。
地図(セルトーヘンボス)
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴 ボス2 3
1516年8月、ス・ヘルトーヘンボスで町の名士としてふさわしい、ボスの葬儀がおこなわれている。記録からは常識的・模範的な人物像がみられ、特異な図像のヒントはない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)と同時代の画家。
デューラーは、1520年にブリュッセルにあるナッサウ家を訪れ、ファン・デル・フースの絵画や調度品について記しているが、そこにあった「快楽の園」には触れていない。またス・ヘルトーヘンボスを訪れた際にもボスについての記述はない。
デューラー「ネーデルラント旅日記」は岩波文庫で読める。
地図(セルトーヘンボス)
世界美術大全集14 北方ルネサンス
人物略歴 ボス2 3