ブランカッチ礼拝堂経緯
プランカッチ家がサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂に礼拝堂を所有したのは1386年。1420年代から30年代初めに礼拝堂の所有者だったフェリーチェ・ブランカッチが壁画装飾を企画したらしい。富裕な絹物商だったフェリーチェは1421年に海上領事、1422〜23年にはエジプト駐在大使を務め、ピサ港を通した貿易拡大を図る政治的にも重要な人物だった。1423年2月フィレンツェに帰国、秋には貴族に列せられている。壁画の制作依頼は1424年頃に行われたとされている。
しかし後には、反メディチ派の支持者とされ、1436年にフィレンツェを追放、1458年には反徒とされた。1474年ブランカッチ家の反逆者という汚名は撤回され、フィレンツェに帰国した。
壁画制作はマゾリーノに依頼され、早い時期からマザッチョが協力者として加わったらしい。穹窿天井にマゾリーノが四福音書記者を描き、天井と壁の間リュネット(半月形壁面)にマゾリーノが「聖ペテロと聖アンデレの召命」「私の子羊を養いなさい。私の羊を飼いなさい。」、マザッチョが「聖ペテロの悔恨」「嵐の中の使徒たちの難船」、祭壇上部中央壁面に「聖ペテロの殉教」を描いた。これらの作品は1746〜48年の礼拝堂改築の際に描き変えられてしまった。中段壁面を二人で分担して描いた後、マゾリーノは残りをマザッチョに任せて、ハンガリーへ旅立った。マザッチョは下段を描いていたが、帰国したマゾリーノにローマへ呼ばれ、ローマで急死してしまった。1480年代初め、フィレンツェに帰国していたブランカッチ家が画家として独立して間もないフィリッピーノ・リッピに依頼して完成された。
しかし後には、反メディチ派の支持者とされ、1436年にフィレンツェを追放、1458年には反徒とされた。1474年ブランカッチ家の反逆者という汚名は撤回され、フィレンツェに帰国した。
壁画制作はマゾリーノに依頼され、早い時期からマザッチョが協力者として加わったらしい。穹窿天井にマゾリーノが四福音書記者を描き、天井と壁の間リュネット(半月形壁面)にマゾリーノが「聖ペテロと聖アンデレの召命」「私の子羊を養いなさい。私の羊を飼いなさい。」、マザッチョが「聖ペテロの悔恨」「嵐の中の使徒たちの難船」、祭壇上部中央壁面に「聖ペテロの殉教」を描いた。これらの作品は1746〜48年の礼拝堂改築の際に描き変えられてしまった。中段壁面を二人で分担して描いた後、マゾリーノは残りをマザッチョに任せて、ハンガリーへ旅立った。マザッチョは下段を描いていたが、帰国したマゾリーノにローマへ呼ばれ、ローマで急死してしまった。1480年代初め、フィレンツェに帰国していたブランカッチ家が画家として独立して間もないフィリッピーノ・リッピに依頼して完成された。