ルネサンス以前のイタリア彫刻 4
ティーノ・ディ・カマイーノ Tino di Camaino
(1280年代初頭〜1337)
ジョヴァンニに続くピサーノ派第3世代の彫刻家だが雰囲気は随分違う。ゴシック彫刻の素朴派ともいわれ、その清楚で抒情的な作風はモディリアニが好んだと伝えられる。
シエナ出身で彫刻家・建築家だった父の下で修業し、シエナで活動していたジョヴァンニの影響を受けている。1297年ジョヴァンニと共にピサへ移り、大聖堂内に「聖ライネリウス墓碑(1306年頃)」、「洗礼盤(1311年頃)」など固有の和らいだ生気を示す作品を制作してる。
1315年にはジョヴァンニを継いでピサ大聖堂の造営主任になっている。この年に初期の最高傑作とされる「皇帝ハインリヒ7世墓碑」の制作を委嘱されている。本来の墓碑の姿は失われているが、皇帝像や残されている補佐役たちの像もティーノの様式を見せている。ところが、7月末以降皇帝派のピサから教皇派のシエナに移り、両派によるモンテカティーニの戦い(1315年8月29日)にも参加している。皇帝墓碑は次の造営主任によって完成されたらしい。
シエナではドゥッチョやシモーネ・マルティーニの「マエスタ」が完成し、新しい時代が始まっていた。シエナで制作した「枢機卿リッカルド・ペトロー二墓碑」にはシエナ派の彫刻・絵画の影響がみられる。
(1280年代初頭〜1337)
ジョヴァンニに続くピサーノ派第3世代の彫刻家だが雰囲気は随分違う。ゴシック彫刻の素朴派ともいわれ、その清楚で抒情的な作風はモディリアニが好んだと伝えられる。
シエナ出身で彫刻家・建築家だった父の下で修業し、シエナで活動していたジョヴァンニの影響を受けている。1297年ジョヴァンニと共にピサへ移り、大聖堂内に「聖ライネリウス墓碑(1306年頃)」、「洗礼盤(1311年頃)」など固有の和らいだ生気を示す作品を制作してる。
1315年にはジョヴァンニを継いでピサ大聖堂の造営主任になっている。この年に初期の最高傑作とされる「皇帝ハインリヒ7世墓碑」の制作を委嘱されている。本来の墓碑の姿は失われているが、皇帝像や残されている補佐役たちの像もティーノの様式を見せている。ところが、7月末以降皇帝派のピサから教皇派のシエナに移り、両派によるモンテカティーニの戦い(1315年8月29日)にも参加している。皇帝墓碑は次の造営主任によって完成されたらしい。
シエナではドゥッチョやシモーネ・マルティーニの「マエスタ」が完成し、新しい時代が始まっていた。シエナで制作した「枢機卿リッカルド・ペトロー二墓碑」にはシエナ派の彫刻・絵画の影響がみられる。
その後フィレンツェに移り活動している。アルノルフォ・ディ・カンビオの没後、優れた個性を失っていたフィレンツェの彫刻界をティーノが主導した。
「ガストーネ・デッラ・トッレ墓碑(1318年以降 サンタ・クローチェ聖堂)」、洗礼堂門扉上の諸彫像、「司教アントニオ・オルソ墓碑」を制作している。静謐さに量感を加え成熟した様式を確立している。
1323年以降はナポリのアンジュー家に仕え「カテリーナ・ダウストリア墓碑」「マリア・ドゥンゲリア墓碑」「マリア・ディ・ヴァロワ墓碑」などを制作した。ティーノは当時最大の彫刻家で、1320〜30年代のトスカーナ・中部イタリアのゴシック彫刻の主要作品はフィレンツェの外で作られた。
ティーノ・ディ・カマイーノ 左から
皇帝ハインリヒ7世 1315年 大理石 ピサ大聖堂美術館
枢機卿リッカルド・ペトロー二墓碑 1317年頃 シエナ大聖堂
希望(マリア・ディ・ヴァロワ墓碑部分)1330年代 大理石 高さ100cm ナポリ サンタ・キアラ聖堂
モノクロ 世界美術大全集10 ゴシック2
司教アントニオ・オルソ墓碑 イタリア彫刻
「ガストーネ・デッラ・トッレ墓碑(1318年以降 サンタ・クローチェ聖堂)」、洗礼堂門扉上の諸彫像、「司教アントニオ・オルソ墓碑」を制作している。静謐さに量感を加え成熟した様式を確立している。
1323年以降はナポリのアンジュー家に仕え「カテリーナ・ダウストリア墓碑」「マリア・ドゥンゲリア墓碑」「マリア・ディ・ヴァロワ墓碑」などを制作した。ティーノは当時最大の彫刻家で、1320〜30年代のトスカーナ・中部イタリアのゴシック彫刻の主要作品はフィレンツェの外で作られた。
皇帝ハインリヒ7世 1315年 大理石 ピサ大聖堂美術館
枢機卿リッカルド・ペトロー二墓碑 1317年頃 シエナ大聖堂
希望(マリア・ディ・ヴァロワ墓碑部分)1330年代 大理石 高さ100cm ナポリ サンタ・キアラ聖堂
モノクロ 世界美術大全集10 ゴシック2
司教アントニオ・オルソ墓碑 イタリア彫刻