
マクシミリアン 大理石騎馬像を計画
1500年、アウクスブルクのウルリヒ・アフラ聖堂祭室造営の定礎式に参列したマクシミリアン1世は、1510年頃、祭室内に自らの等身大の大理石騎馬像を立てることを計画した。画家に構想図を描かせ、彫刻家に制作を依頼したが未完に終わった。構想図に基づく木版画が残されている。騎馬像はドイツ中世にも造られていたが、特定の個人を表す騎馬像はイタリアの人文主義とルネサンス形式の影響を受けたものだった。
1499年、フランスのルイ12世によってミラノを追われた公、ルドヴィコ・イル・モーロはインスブルックのマクシミリアンのもとに滞在していた。1493年、マクシミリアンはルドヴィコの姪ビアンカ・マリアと再婚していた。ミラノでの代理結婚の際に、レオナルド・ダ・ヴィンチが制作した「スフォルツァ騎馬像」の粘土モデルが展示されていて、マクシミリアンはルドヴィコの話などから自らの騎馬像制作を考えたらしい。
1499年、フランスのルイ12世によってミラノを追われた公、ルドヴィコ・イル・モーロはインスブルックのマクシミリアンのもとに滞在していた。1493年、マクシミリアンはルドヴィコの姪ビアンカ・マリアと再婚していた。ミラノでの代理結婚の際に、レオナルド・ダ・ヴィンチが制作した「スフォルツァ騎馬像」の粘土モデルが展示されていて、マクシミリアンはルドヴィコの話などから自らの騎馬像制作を考えたらしい。
マクシミリアンの騎馬像は祭室内に置かれることになっていて、広場に設置されたドナテッロの「ガッタメラータ騎馬像(1447〜53)」やヴェロッキオの「コッレオーニ騎馬像(1481〜88)」よりも奉納像としての性格が強かった。イタリアの人文主義による近代的自意識と、個人の讃美に対して宗教的な意味合いが残る北方ドイツのマクシミリアン1世の意識の違いがみられる。
イタリアの騎馬像は美術家個人の創造として単独の工房で制作されたが、マクシミリアン騎馬像は構想図を画家に描かせ、制作を彫刻家に依頼していた。分業で進められているうちに、注文者の構想を実現するための改良や変更が求められると騎馬像を完成するのは難しくなる。
1510年代
世界美術大全集14 北方ルネサンス
イタリアの騎馬像は美術家個人の創造として単独の工房で制作されたが、マクシミリアン騎馬像は構想図を画家に描かせ、制作を彫刻家に依頼していた。分業で進められているうちに、注文者の構想を実現するための改良や変更が求められると騎馬像を完成するのは難しくなる。
1510年代
世界美術大全集14 北方ルネサンス