
チャールズ1世 処刑 護国卿政権
1648年12月、長期議会の長老派議員は独立派のプライド大佐によって追放され(プライドのパージ)、議会は独立派議員だけの残部(ランプ)議会になった。1649年初め、捕らえられていた国王を裁くための高等裁判所が設置され、1月末に死刑判決がだされて、公衆の前で処刑された。3月、独立派は平等派を弾圧して独裁的な体制を作り、5月に共和政宣言が出された。
アイルランドでは、国王派とカトリック教徒が同盟して、反革命勢力となっていた。1649年8月、クロムウェルを司令官とする軍隊は、ダブリンに上陸し、翌年5月まで非戦闘員を含む多くの市民を虐殺した。1650年7月からスコットランドに侵入して、9月、第二次内戦で国王側についたスコットランド軍を破り、1651年9月には国王の遺児チャールズ2世の軍をウースタの戦いで破った。チャールズ2世はフランスに亡命し、革命に伴う内戦が終わった。
1652年、アイルランドで反乱に参加した者やカトリック地主の土地が大量に没収され、ロンドン商人やプロテスタント地主に渡されて、アイルランドの植民地化が進んだ。1653年の指名議会ではアイルランド、スコットランドに議席が与えられ、同年12月の議席定数でも議席が配分された。
1640年代
世界各国史11 イギリス史
アイルランドでは、国王派とカトリック教徒が同盟して、反革命勢力となっていた。1649年8月、クロムウェルを司令官とする軍隊は、ダブリンに上陸し、翌年5月まで非戦闘員を含む多くの市民を虐殺した。1650年7月からスコットランドに侵入して、9月、第二次内戦で国王側についたスコットランド軍を破り、1651年9月には国王の遺児チャールズ2世の軍をウースタの戦いで破った。チャールズ2世はフランスに亡命し、革命に伴う内戦が終わった。
1652年、アイルランドで反乱に参加した者やカトリック地主の土地が大量に没収され、ロンドン商人やプロテスタント地主に渡されて、アイルランドの植民地化が進んだ。1653年の指名議会ではアイルランド、スコットランドに議席が与えられ、同年12月の議席定数でも議席が配分された。
1640年代
世界各国史11 イギリス史
1653年4月、クロムウェルと軍隊によって残部議会は解散させられ、7月、より急進的な指名議会が開会された。選挙ではなく、軍隊と教会の推薦によって議員を選出した変則的・実験的議会だった。議員には、第五王国派と呼ばれる千年王国論者も含まれていた。指名議会はさまざまな改革に着手したが、急進的だったため、穏健派はクロムウェルと結んで、12月に指名議会を解散させた。
クロムウェルは、軍幹部が用意した成文憲法「統治章典」に従って護国卿(プロテクター)という地位に就いた。護国卿はイングランドの国益を護るだけでなく、スコットランド、アイルランド、植民地やヨーロッパのプロテスタント保護を目的としていた。
護国卿政権の立場は厳しいものだった。議会を追われた第五王国派は批判勢力となり、平等派残党などの活動も脅威だった。1655年3月には国王派の蜂起もあった。クロムウェルの政府は軍事独裁色を強め、議会も保守化し君主制に復帰して事態を乗り切ろうとした。議会はクロムウェルを王位に就けようとしたが、拒否され、再度護国卿に就いたクロムウェルは1658年9月、病死した。息子リチャード・クロムウェルが護国卿を継いだが、1659年5月、職を退き護国卿政権は崩壊した。
同月、残部議会が再招集され、以後ステュアート朝の王政復古へ進んでいった。
クロムウェルは、軍幹部が用意した成文憲法「統治章典」に従って護国卿(プロテクター)という地位に就いた。護国卿はイングランドの国益を護るだけでなく、スコットランド、アイルランド、植民地やヨーロッパのプロテスタント保護を目的としていた。
護国卿政権の立場は厳しいものだった。議会を追われた第五王国派は批判勢力となり、平等派残党などの活動も脅威だった。1655年3月には国王派の蜂起もあった。クロムウェルの政府は軍事独裁色を強め、議会も保守化し君主制に復帰して事態を乗り切ろうとした。議会はクロムウェルを王位に就けようとしたが、拒否され、再度護国卿に就いたクロムウェルは1658年9月、病死した。息子リチャード・クロムウェルが護国卿を継いだが、1659年5月、職を退き護国卿政権は崩壊した。
同月、残部議会が再招集され、以後ステュアート朝の王政復古へ進んでいった。