
フロンドの乱 マザランの外交
1648年8月、母后アンヌ・ドートリッシュとマザランは反撃に出て、最高諸院運動の中心人物ブルセルを逮捕した。これをきっかけにパリの民衆が蜂起してフロンドの乱が始まった。
最高書院の法官や官職保有者は地方長官制や俸給削減によって、特権が脅かされていると感じ、パリのブルジョワや民衆は増税に不満があった。コンデ親王など帯剣貴族は、奪われた政治的・行政的権限の回復を図ろうとしていた。帯剣貴族がそれぞれの領地や地方総督として赴任している地域で、人脈を通じて貴族たちを集めたことで反乱は地方にも広がった。
各層の運動は、それぞれの利害が異なり、一致した反王権運動にはならなかった。官職保有者と帯剣貴族は、政府を含めた三者の間で複雑な提携関係を繰り返した。
1640年代
世界各国史12 フランス史
最高書院の法官や官職保有者は地方長官制や俸給削減によって、特権が脅かされていると感じ、パリのブルジョワや民衆は増税に不満があった。コンデ親王など帯剣貴族は、奪われた政治的・行政的権限の回復を図ろうとしていた。帯剣貴族がそれぞれの領地や地方総督として赴任している地域で、人脈を通じて貴族たちを集めたことで反乱は地方にも広がった。
各層の運動は、それぞれの利害が異なり、一致した反王権運動にはならなかった。官職保有者と帯剣貴族は、政府を含めた三者の間で複雑な提携関係を繰り返した。
1640年代
世界各国史12 フランス史
1652年10月、地方を転戦していた宮廷がパリに戻り、反乱は実質的に終わった。ボルドーでは「楡の木同盟」と呼ばれる手工業者を中心とした組織が、市政改革に取り組んでいたが、1653年7月に鎮圧された。王権は地方長官制を1653年から復活させ、秩序の回復に取りかかった。
1648年のウェストファリア条約で、ハプスブルク家からアルザスにたいする原則的領有権を獲得した。スペインとの戦争は続いたが、1659年のピレネ条約ではアルトワの大部分を獲得し、スペイン国王フェリペ4世の長女マリ・テレーズとルイ14世の婚姻を取りつけ、フェリペ死後のスペインに対する権利を獲得した。マザランは国内では不人気だったが、外交でフランスが得たものは大きかった。1612年マザランが死去し、ルイ14世(22歳)が親政を開始した。
1648年のウェストファリア条約で、ハプスブルク家からアルザスにたいする原則的領有権を獲得した。スペインとの戦争は続いたが、1659年のピレネ条約ではアルトワの大部分を獲得し、スペイン国王フェリペ4世の長女マリ・テレーズとルイ14世の婚姻を取りつけ、フェリペ死後のスペインに対する権利を獲得した。マザランは国内では不人気だったが、外交でフランスが得たものは大きかった。1612年マザランが死去し、ルイ14世(22歳)が親政を開始した。