
オランダ共和国独立とリエージュ司教領
1621年大公アルベルトが死去して、低地地方南部10州はスペイン王フェリペ4世の支配下に戻った。休戦条約(1609〜21年)のあと、スペインと北部共和国との戦いが再開された。さらにフランスとの紛争が続き、低地地方南部は「災厄の一世紀」と呼ばれる時期になる。1635年から1713年までに、北部共和国(オランダ)、フランス、イギリス、スペインなどによる戦いの場となり、農村は徴発、略奪、破壊などの被害を受け、都市でも1695年のブリュッセルのグラン・プラスの砲撃などがあった。
スペイン側の敗北が続き、1648年のミュンスターの講和(ウェストファリア条約の一部)で北部共和国はスペインからオランダ共和国として独立を承認され、一部の領土が加えられた。フランスも領土を増やすなかで、オランダ、フランス、のちのベルギーの国境が決められていった。
1640年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
スペイン側の敗北が続き、1648年のミュンスターの講和(ウェストファリア条約の一部)で北部共和国はスペインからオランダ共和国として独立を承認され、一部の領土が加えられた。フランスも領土を増やすなかで、オランダ、フランス、のちのベルギーの国境が決められていった。
1640年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
リエージュ司教領
ムーズ川中流域のリエージュ司教領は神聖ローマ帝国とフランス王国の中継地になっていた。神聖ローマ帝国領内にあったが、15世紀末、司教の外交手腕でフランス王シャルル8世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世から中立を認められた。16世紀後半にスペイン軍やオランイェ公の軍隊から被害を受けたため、1577年あらたに永続的中立を宣言し、スペイン領低地地方と分離した。
17世紀、リエージュ司教の多くはバイエルン公家出身で、一族はケルン大司教もだしていて、政治的には神聖ローマ帝国との関係が強かった。17世紀以降も永続的中立を維持し周辺諸国からの承認を得ていた。しかし、その永続的中立は現在の国家の中立とは異なり、他国の軍隊が司教領内を通行し、宿営、糧食を提供されうるという柔軟なものだった。
17世紀には豊富な石炭を動力源とした鉄の精錬がおこなわれ、貴金属・銅加工業や武具製造業が発展し、ムーズ川はオランダとの交易の重要なルートでありつづけた。
ムーズ川中流域のリエージュ司教領は神聖ローマ帝国とフランス王国の中継地になっていた。神聖ローマ帝国領内にあったが、15世紀末、司教の外交手腕でフランス王シャルル8世と神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世から中立を認められた。16世紀後半にスペイン軍やオランイェ公の軍隊から被害を受けたため、1577年あらたに永続的中立を宣言し、スペイン領低地地方と分離した。
17世紀、リエージュ司教の多くはバイエルン公家出身で、一族はケルン大司教もだしていて、政治的には神聖ローマ帝国との関係が強かった。17世紀以降も永続的中立を維持し周辺諸国からの承認を得ていた。しかし、その永続的中立は現在の国家の中立とは異なり、他国の軍隊が司教領内を通行し、宿営、糧食を提供されうるという柔軟なものだった。
17世紀には豊富な石炭を動力源とした鉄の精錬がおこなわれ、貴金属・銅加工業や武具製造業が発展し、ムーズ川はオランダとの交易の重要なルートでありつづけた。