
マザニエッロの反乱 ナポリ王国
ナポリ王国の行政上の単位はウニヴェルシタ(共同体)と呼ばれ、17世紀には2000程あってうち150近くが都市だった。都市は国王・教皇から認可状を得たウニヴェルシタで、司教座があるところが多かった。しかし都市としての発達はみられず、大都市ナポリに次ぐバーリの人口は2万人程度で、人口千人以下の都市もあった。
それぞれのウニヴェルシタは自治権をもち自立的な行政運営ができるはずだったが、多くは貴族と個別に契約を結んで封建的支配のもとにおかれた。ナポリ王国では、北部・中部のように都市が周辺地域をコンタードとして支配することはなかった。
王権と貴族層という二元的支配の構造で、諸制度・諸法規が複雑になって、裁判官、弁護士、公証人などの法曹が重要な役割を果たすようになった。
1640年代
世界各国史15 イタリア史
それぞれのウニヴェルシタは自治権をもち自立的な行政運営ができるはずだったが、多くは貴族と個別に契約を結んで封建的支配のもとにおかれた。ナポリ王国では、北部・中部のように都市が周辺地域をコンタードとして支配することはなかった。
王権と貴族層という二元的支配の構造で、諸制度・諸法規が複雑になって、裁判官、弁護士、公証人などの法曹が重要な役割を果たすようになった。
1640年代
世界各国史15 イタリア史
17世紀のスペインは、30年戦争、オランダ独立戦争の再開など、戦費の調達に追われていた。戦略的拠点ミラノ公国に派遣する兵士・軍事費をナポリ王国で調達していたため、爵位、官職、領主権などを売却するほか、それまでの重税に加えてさらに増税策をとった。直接税には富裕層の反発が強く、ナポリ市民や聖職者は課税を免除されていたため、増税は食料品などの間接税に向けられた。
1647年7月、果物税があらたに導入されると、民衆(プレーベ)に人気が高かった魚屋のマザニエッロ(トンマーゾ・アニエッロ)を指導者とする反乱がナポリで起きた。副王は反乱発生の10日後にマザニエッロを暗殺したが、反乱は地方にも広がり、ポーポロ層も加わって制度改革案が練られるなど、王国全体にわたり長期化した。1648年4月、反乱側内部の統一が乱れ、スペイン軍の制圧されて終息した。
1656〜57年にジェノヴァ、ローマ、南イタリアでペストが流行して、ナポリ市では人口が半減した。
1647年7月、果物税があらたに導入されると、民衆(プレーベ)に人気が高かった魚屋のマザニエッロ(トンマーゾ・アニエッロ)を指導者とする反乱がナポリで起きた。副王は反乱発生の10日後にマザニエッロを暗殺したが、反乱は地方にも広がり、ポーポロ層も加わって制度改革案が練られるなど、王国全体にわたり長期化した。1648年4月、反乱側内部の統一が乱れ、スペイン軍の制圧されて終息した。
1656〜57年にジェノヴァ、ローマ、南イタリアでペストが流行して、ナポリ市では人口が半減した。