
アレクセイ ツァーリに即位
ロマノフ家の初代ミハイルは1645年に死去し、16歳のアレクセイがツァーリに即位した。ツァーリは世襲され、全国会議は開かれなかった。アレクセイを支えたのは扶育官のボリス・モローゾフ。全国19郡に農民9100世帯の領地を持ち、石灰製造など多くのマニュフファクチュアも経営して巨万の利益を得ていた。
しかしモローゾフが税制改革のために打ち出した、諸税を撤廃する代わりに直接税である塩税を引き上げるという政策が民衆の反発を招いた。買い控えなどが起き、1648年6月にはモスクワで塩一揆が発生、塩税の引き上げは撤回を余儀なくされた。その後、前の2年間に「滞納された」諸税を徴収するために、1648年に3年分の税の徴収を求めた。民衆はクレムリンに押しかけ、モローゾフの引き渡しを要求した。アレクセイが助命を求めたため、許され、修道院に入った。政府高官や特権商人の館が襲撃を受け、民衆にも多くの犠牲者がでた。モスクワでは社会変革の動きがみられ、全国会議を召集して新しい法典を作成することが決定された。
1640年代
しかしモローゾフが税制改革のために打ち出した、諸税を撤廃する代わりに直接税である塩税を引き上げるという政策が民衆の反発を招いた。買い控えなどが起き、1648年6月にはモスクワで塩一揆が発生、塩税の引き上げは撤回を余儀なくされた。その後、前の2年間に「滞納された」諸税を徴収するために、1648年に3年分の税の徴収を求めた。民衆はクレムリンに押しかけ、モローゾフの引き渡しを要求した。アレクセイが助命を求めたため、許され、修道院に入った。政府高官や特権商人の館が襲撃を受け、民衆にも多くの犠牲者がでた。モスクワでは社会変革の動きがみられ、全国会議を召集して新しい法典を作成することが決定された。
1640年代
1649年1月に「会議法典」が発布された。(25章967項)
「農民裁判について(11章)」
逃亡農民の捜索期限が撤廃されて、逃亡農民を隠す者には高額な罰金が定められた。士族たちが求めていた農奴制が完成した。しかし、逆に逃亡農民は増え、1650年代後半には、政府による全国的な捜索がおこなわれ、罰金も引き上げられた。
聖俗の領主が都市にもつ無税の商工地区(スロボダ)が撤廃された。民衆の利益となったが、彼ら担税民は居住地の変更が禁じられた。また貴族たちは担税民を私的なホロープ(奴隷)とすることが禁じられた。
教会は都市にもっていた多くの無税の商工地区を失い、新たな土地の受け取りが禁止された。さらに世俗の修道院官庁が設置され、既得の裁判権なども制限を受けることになった。
「会議法典」は旧来の規定を集成したもので、時代遅れになっても、形式的には1835年まで効力を持っていた。
世界各国史22 ロシア史
「農民裁判について(11章)」
逃亡農民の捜索期限が撤廃されて、逃亡農民を隠す者には高額な罰金が定められた。士族たちが求めていた農奴制が完成した。しかし、逆に逃亡農民は増え、1650年代後半には、政府による全国的な捜索がおこなわれ、罰金も引き上げられた。
聖俗の領主が都市にもつ無税の商工地区(スロボダ)が撤廃された。民衆の利益となったが、彼ら担税民は居住地の変更が禁じられた。また貴族たちは担税民を私的なホロープ(奴隷)とすることが禁じられた。
教会は都市にもっていた多くの無税の商工地区を失い、新たな土地の受け取りが禁止された。さらに世俗の修道院官庁が設置され、既得の裁判権なども制限を受けることになった。
「会議法典」は旧来の規定を集成したもので、時代遅れになっても、形式的には1835年まで効力を持っていた。
世界各国史22 ロシア史