
ポルトガルの独立反乱 ジョアン4世即位宣言
フェリーペ2世の死後、息子フェリーペ3世がポルトガル国王フィリーペ2世(在位1598〜1621)として即位した。フィリーペ2世は大貴族や高位聖職者を懐柔して統治していたが、中央集権強化のために1600年以降、財政の監査役や総督を補佐する評議会にカスティーリャ人を送り込むようになり、1611年からはマドリード政府のために、ポルトガルの中間層に重税を課してきた。人々に独立を求める気分が広まり、生き延びたセバスティアンが王位を回復するという、セバスティアン信仰も起こってきた。
フェリーペ4世、ポルトガル国王フィリーペ3世(在位1621〜40)の治世には、国政を委ねられていたオリバーレス伯がスペインのために、ポルトガルに増税、軍制改革、徴兵を強いてきたが、それに対して、同君連合による経済的恩恵は失われてきていた。アメリカの銀は減産に転じ、新大陸に渡っていたポルトガル人は排斥され始めた。1637年、新たな増税に反対する民衆暴動がエヴォラで起こり、南部に波及していった。暴動はカスティーリャ軍によって鎮圧されたが、再独立を求める気運が高まった。
1640年代 ヨーロッパ史年表
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
フェリーペ4世、ポルトガル国王フィリーペ3世(在位1621〜40)の治世には、国政を委ねられていたオリバーレス伯がスペインのために、ポルトガルに増税、軍制改革、徴兵を強いてきたが、それに対して、同君連合による経済的恩恵は失われてきていた。アメリカの銀は減産に転じ、新大陸に渡っていたポルトガル人は排斥され始めた。1637年、新たな増税に反対する民衆暴動がエヴォラで起こり、南部に波及していった。暴動はカスティーリャ軍によって鎮圧されたが、再独立を求める気運が高まった。
1640年代 ヨーロッパ史年表
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
1640年6月、カタルーニャで反乱が起きた。鎮圧に苦労したオリバーレスは、ポルトガル最大の領主ブラガンサ公ドン・ジョアンにポルトガル軍の指揮権を与えカタルーニャに送り込もうとした。同年12月、一部の貴族がブラガンサ公の担ぎ出しに成功し、リスボンの王宮を占拠した。5日後にリスボンに入ったブラガンサ公がポルトガル国王ジョアン4世(在位1640〜56)として即位した。翌年のコルテスでこの反乱は正当化された。
ブラガンサ朝ポルトガルは独立を宣言したが、内外に不安要因をかかえていた。下層民は再独立を支持したが、ブルジョワジーは関与していなかった。多くの貴族・高位聖職者はスペインを支持し、異端審問所は新政権に敵対、教皇庁も独立の承認を拒んでいた。
オランダとは1641年に10年間の休戦条約を結び、ヨーロッパ海域での交易関係を確立したが、インド洋・大西洋ではつぎつぎにポルトガルの拠点を奪っていた。クロムウェルのイギリスとは1650年から交戦状態だった。
ジョアン4世は支援を受けるために、1654年に譲歩してクロムウェルと和約を結んだ。59年からはスペインがポルトガルへの攻勢を強めたが、68年イギリスの仲介でスペインと平和条約を締結した。独立の承認を得て、海外の領土もセウタを除いて保全された。
ブラガンサ朝ポルトガルは独立を宣言したが、内外に不安要因をかかえていた。下層民は再独立を支持したが、ブルジョワジーは関与していなかった。多くの貴族・高位聖職者はスペインを支持し、異端審問所は新政権に敵対、教皇庁も独立の承認を拒んでいた。
オランダとは1641年に10年間の休戦条約を結び、ヨーロッパ海域での交易関係を確立したが、インド洋・大西洋ではつぎつぎにポルトガルの拠点を奪っていた。クロムウェルのイギリスとは1650年から交戦状態だった。
ジョアン4世は支援を受けるために、1654年に譲歩してクロムウェルと和約を結んだ。59年からはスペインがポルトガルへの攻勢を強めたが、68年イギリスの仲介でスペインと平和条約を締結した。独立の承認を得て、海外の領土もセウタを除いて保全された。