
徳川幕府 鎖国政策 ポルトガル船の来航を禁止
島原の乱の際、幕命を受けたオランダ商館長クーケバッケルが1638年2月、原城を艦砲射撃した(ポルトガル・スペインはカトリック、オランダはプロテスタント)。
1633年から始まった鎖国令は、1639年7月のカレウタ船渡航禁止令で完結した。ポルトガル船の来航は禁止され、ヨーロッパ人ではオランダ人が日本との貿易を独占することになった。原城を攻撃した後、オランダ人が幕府にポルトガルの貿易禁止を働きかけたためだったともされている。オランダの対日貿易独占のための企てが、鎖国強化につながったのかもしれない。バタヴィアの東インド総督府は39年12月に盛大な祝賀を催している。オランダの目的は中国の生糸・絹織物を日本で売って銀・銅を得ることだった。
1630年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1633年から始まった鎖国令は、1639年7月のカレウタ船渡航禁止令で完結した。ポルトガル船の来航は禁止され、ヨーロッパ人ではオランダ人が日本との貿易を独占することになった。原城を攻撃した後、オランダ人が幕府にポルトガルの貿易禁止を働きかけたためだったともされている。オランダの対日貿易独占のための企てが、鎖国強化につながったのかもしれない。バタヴィアの東インド総督府は39年12月に盛大な祝賀を催している。オランダの目的は中国の生糸・絹織物を日本で売って銀・銅を得ることだった。
1630年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
17世紀、日本が豊かに産出する銀は、大量の貴金属を必要としていた東インド会社にとって魅力的だった。1641年以降長崎の出島に移ったオランダ商館は、40年間にわたって高収益をあげている(石見銀山で多くの銀が産出されていた日本の金・銀の交換比率が諸国とは違っていた)。しかし急激な銀の流出を懸念した幕府は1685年、外国貿易制限令をだして銀の輸出を制限した。そのため18世紀になると銅の輸出が多くなった。1700年にはオランダ船は年に4隻に制限され、15年にはさらに2隻とされた。そして18世紀後半になると日本がスペイン・中国の銀を輸入するようになった。
オランダ船は長崎に入港すると、世界の情報を「和蘭陀(オランダ)風説書」として幕府に提出することになっていた。世界各地に進出していたオランダは豊富な情報量を持っていて、鎖国の日本はオランダを通して世界を見ることができた。
オランダ船は長崎に入港すると、世界の情報を「和蘭陀(オランダ)風説書」として幕府に提出することになっていた。世界各地に進出していたオランダは豊富な情報量を持っていて、鎖国の日本はオランダを通して世界を見ることができた。