
30年戦争介入とカタルーニャ反乱
1635年フランスが、スペインに宣戦を布告。神聖ローマ帝国内のカトリックとプロテスタントの戦いだった30年戦争は、国際戦争へ変わっていった。スペインはヨーロッパ各地の領土に軍隊を派遣・駐屯させなければならなくなった。初期の戦況は有利だったが、39年のダウンズの海戦でスペイン海軍はオランダの艦隊に敗れた。ミラノとブリッセルを結ぶ「スペイン街道」とドーヴァー海峡をとおる海路を断たれ、ネーデルラントのスペイン軍は不利な状況に陥った。1643年のロクロワの戦いで、槍兵からマスケット銃・大砲に主力を移していたフランス軍は、スペイン軍歩兵連隊に大勝した。
戦争が長期化し、王室財政は逼迫、軍隊統合計画への反発も強かった。1635年、フランスとの戦争が始まるとカタルーニャは戦略拠点になり、カタルーニャの村落に駐屯するカスティーリャ軍に対する農民の反発は高まった。
戦争が長期化し、王室財政は逼迫、軍隊統合計画への反発も強かった。1635年、フランスとの戦争が始まるとカタルーニャは戦略拠点になり、カタルーニャの村落に駐屯するカスティーリャ軍に対する農民の反発は高まった。
40年5月には、軍隊に宿泊供与の便宜をはかる国王役人が殺害され、6月にはバルセロナ市の伝統的宗教行事に参加した刈取り人が暴動を起こし、副王を殺害した。カタルーニャ反乱が始まった。(現在のカタルーニャ自治州歌は「刈取り人」蜂起を讃えた歌)
カタルーニャのジェネラリタート(議会常設代表部)を構成する上層階級は、カスティーリャ軍に抵抗しながら、反乱が社会革命に拡大するのを抑えなければならなかった。そこで1640年10月、フランスと防衛協約を結び、翌年1月ルイ13世を新たな君主に戴いた。しかしフランス王権の専横的振舞いと軍の略奪行為から、フランスへの反発が強まった。51年には疫病が広まり、住民の間には厭戦気分が広がった。52年バルセロナは降伏、翌年フェリーペ4世がカタルーニャの諸特権を尊重すると表明して、反乱は終結した。
1630年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
カタルーニャのジェネラリタート(議会常設代表部)を構成する上層階級は、カスティーリャ軍に抵抗しながら、反乱が社会革命に拡大するのを抑えなければならなかった。そこで1640年10月、フランスと防衛協約を結び、翌年1月ルイ13世を新たな君主に戴いた。しかしフランス王権の専横的振舞いと軍の略奪行為から、フランスへの反発が強まった。51年には疫病が広まり、住民の間には厭戦気分が広がった。52年バルセロナは降伏、翌年フェリーペ4世がカタルーニャの諸特権を尊重すると表明して、反乱は終結した。
1630年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史