
クリスティーナ(6歳)王位を継ぐ
1632年、リュッツェンの会戦で戦死したグスタヴ2世アードルフを継いだのは、唯一の嫡子、娘のクリスティーナ(6歳 在位1632〜54)だった。オクセンシャーナはドイツで戦争の指揮をとりながら、内政の指導もおこなった。彼は幼い女王のもとで動揺が起きるのを抑えるために、1634年議会で「政体法」を制定させた。スウェーデンの国家機構とその運用を規定したもので、のちのスウェーデン憲法の原型となった。
30年戦争は続いていたが、ドイツの小邦群が脱落していき、1634年にフランスが介入すると、宗教戦争からフランス・スウェーデン同盟対神聖ローマ皇帝の戦いへと変わり、スウェーデンもフランスの脇役になっていった。
1630年代
世界各国史21 北欧史、地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房
30年戦争は続いていたが、ドイツの小邦群が脱落していき、1634年にフランスが介入すると、宗教戦争からフランス・スウェーデン同盟対神聖ローマ皇帝の戦いへと変わり、スウェーデンもフランスの脇役になっていった。
1630年代
世界各国史21 北欧史、地図 ヨーロッパ歴史地図 原書房
1643〜45年のデンマーク・スウェーデン間のトシュテンソン戦争では、スウェーデンが勝利して、ゴットランド、イェムトランド(現在のトロンへイムの東、デンマークが支配していたノルウェーから割譲)を獲得し、エーアソン海峡での免税特権を得ている。
1648年のウェストファリア講和条約で30年戦争が終わった。スウェーデンはブレーメン・フェルデン両司教領、ヴィスマル市、前ポンメルン(旧ポンメルン公国の西半分)を獲得して、バルト海南岸の支配を強めたが、デンマークとの紛争を招くことになった。
クリスティーナ女王成人後もオクセンシャーナが政治を主導していたが、クリスティーナは学問・芸術を好み、一方で大貴族の権力・財力の強化を放置した。王領地減少と貴族領地拡大が財政上の問題となった。カトリックに改宗したクリスティーナは1654年王位を捨て、以後イタリアでサロンの女王として生きた。
1648年のウェストファリア講和条約で30年戦争が終わった。スウェーデンはブレーメン・フェルデン両司教領、ヴィスマル市、前ポンメルン(旧ポンメルン公国の西半分)を獲得して、バルト海南岸の支配を強めたが、デンマークとの紛争を招くことになった。
クリスティーナ女王成人後もオクセンシャーナが政治を主導していたが、クリスティーナは学問・芸術を好み、一方で大貴族の権力・財力の強化を放置した。王領地減少と貴族領地拡大が財政上の問題となった。カトリックに改宗したクリスティーナは1654年王位を捨て、以後イタリアでサロンの女王として生きた。
