
ヴワディスワフ4世ヴァーザ
1632年、ジグムント3世の没後、国王選挙で長男ヴワディスワフが選出された。ヴワディスワフ4世ヴァーザ(在位1632〜48)。この年、ロシア軍がスモレンスクを包囲したが、これを撃退し東方領土の大半が確保された。1635年にはスウェーデンに圧力をかけ、王領プロイセンの支配を回復したが、リヴォニア北部はスウェーデンに残された。1641年にはブランデンブルク選帝侯がプロイセン公位継承のためにヴワディスワフ4世に忠誠を誓った。これがプロイセン公のポーランド国王に対する最後の臣従誓約になった。
晩年のヴワディスワフ4世は、対トルコ戦争を計画した。オスマン帝国と戦うことでタタールの勢力を弱め、コサックを動員することでウクライナでの不満を解消しようとした。しかし、王権強化を懸念したシュラフタが戦争に同意しなかった。王の指示で準備を進めていたウクライナ・コサックには不満が残った。
晩年のヴワディスワフ4世は、対トルコ戦争を計画した。オスマン帝国と戦うことでタタールの勢力を弱め、コサックを動員することでウクライナでの不満を解消しようとした。しかし、王権強化を懸念したシュラフタが戦争に同意しなかった。王の指示で準備を進めていたウクライナ・コサックには不満が残った。
ウクライナでは賦役農場制が拡大して領主の農民支配が強化され、カトリック教会によって合同教会が押しつけられたことで、正教徒農民の中でポーランド支配にたいする反感が強まっていた。コサックもポーランド側がその軍事力を利用しながら、シュラフタの待遇を認められず、略奪行為が規制されていることに不満を持っていた。ウクライナでは、16世紀末からコサックと農民の反乱が続いて起きていた。(1595〜96、1625、30、37、38年)その後、ヴワディスワフ4世治世後期の10年間は比較的平穏だった。
1648年にフミェルニツキが率いるコサックが、クリミア・タタールと組んで大規模な蜂起を起こした。
1630年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
1648年にフミェルニツキが率いるコサックが、クリミア・タタールと組んで大規模な蜂起を起こした。
1630年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史