
オランダのアジア内貿易1
1602年東インド会社が派遣した重装備の船団は、モザンビーク(アフリカ東岸)とゴア(インド西岸)のポルトガルの拠点を攻撃するように命じられていた。攻撃は不成功で、1605年にアンボン島(モルッカ諸島)、1609年にバンダネイラ島(セラム島の南 バンダ諸島)をおさえたが、アジア内貿易の拠点には向いていなかった。マラッカはゴアとともにポルトガルの重要拠点で、ジャワ島西端のバンテンにもポルトガル人、イギリス人が進出していた。第4代東インド総督クーンは1619年5月、バンテン王国の内紛に乗じて、バンテンの東にある港町ジャカルタに要塞を築き、バタヴィアと命名して東インド総督府をおいた。ここを拠点にアジア内貿易を進めた。
ヨーロッパにはアジア向けの主要な輸出品がなく、アジア内貿易で得た利益で香辛料などの物産を購入するしかなかった。東南アジアを中心とした貿易ネットワークがすでにできていて、オランダ人はこれを利用することにした。
1610年代 オランダのアジア内貿易2
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
ヨーロッパにはアジア向けの主要な輸出品がなく、アジア内貿易で得た利益で香辛料などの物産を購入するしかなかった。東南アジアを中心とした貿易ネットワークがすでにできていて、オランダ人はこれを利用することにした。
1610年代 オランダのアジア内貿易2
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
オランダ人は3つの方法を使った。
1 武力である地域を支配し、貿易を独占する方法。
1621年、クーンはナツメッグ(にくずく)とメースを独占するために、モルッカ諸島中部にあるバンダ諸島の住民大虐殺までおこなった。
1638年、ポルトガル人が要塞を築いていた、シナモン(肉桂)の特産地セイロン(スリランカ)を攻撃、58年にはシナモンの生産地をおさえた。会社は1796年までセイロンを事実上支配して、バタヴィアに次ぐ第二の拠点とした。
1624年、タイオワン(台湾)に進出、ゼーランディア城を築いて、41年までにスペイン人を追放し全島を支配した。対中国貿易の拠点としていたが、1662年には国性爺(鄭成功)に追放されて、中国貿易は一時縮小した。
1641年にはポルトガルからマラッカを奪い、63〜68年にはマカッサル(スラウェシ島)を制圧し、他のヨーロッパ商人のモルッカ諸島への進出を阻止した。ジャワ島でも東部のマタラム王国の内紛に乗じて1679年に、84年にはバンテン王国をそれぞれ属国化して、イギリス人を追放した。
1 武力である地域を支配し、貿易を独占する方法。
1621年、クーンはナツメッグ(にくずく)とメースを独占するために、モルッカ諸島中部にあるバンダ諸島の住民大虐殺までおこなった。
1638年、ポルトガル人が要塞を築いていた、シナモン(肉桂)の特産地セイロン(スリランカ)を攻撃、58年にはシナモンの生産地をおさえた。会社は1796年までセイロンを事実上支配して、バタヴィアに次ぐ第二の拠点とした。
1624年、タイオワン(台湾)に進出、ゼーランディア城を築いて、41年までにスペイン人を追放し全島を支配した。対中国貿易の拠点としていたが、1662年には国性爺(鄭成功)に追放されて、中国貿易は一時縮小した。
1641年にはポルトガルからマラッカを奪い、63〜68年にはマカッサル(スラウェシ島)を制圧し、他のヨーロッパ商人のモルッカ諸島への進出を阻止した。ジャワ島でも東部のマタラム王国の内紛に乗じて1679年に、84年にはバンテン王国をそれぞれ属国化して、イギリス人を追放した。