
チューリヒ フランスと傭兵契約同盟
スイスの中立政策。1536年にチューリヒがだした外交訓令書に、中立を意味する言葉がみられるが、それは「不偏不党」という言葉と並べて使われている。自らの意志と費用で外国の争いには加わらない、ということで、傭兵契約に基づくスイス人傭兵の出兵は中立とは矛盾しないとされていた。
ドイツの新旧両派の戦い、シュマルカルデン戦争(1546〜48年)では、皇帝は盟約者団に「不偏不党」の立場を求め、新教側はアルプスの峠を敵に通過させないことを求めていた。盟約者団会議は1546年8月に「不偏不党」の立場に立つことを宣言しているが、ドイツの新旧両軍には少なくないスイス人傭兵の姿があった。
16世紀後半のフランスの宗教内乱、ユグノー戦争でも新旧両陣営に多くのスイス人傭兵がみられた。
1610年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
ドイツの新旧両派の戦い、シュマルカルデン戦争(1546〜48年)では、皇帝は盟約者団に「不偏不党」の立場を求め、新教側はアルプスの峠を敵に通過させないことを求めていた。盟約者団会議は1546年8月に「不偏不党」の立場に立つことを宣言しているが、ドイツの新旧両軍には少なくないスイス人傭兵の姿があった。
16世紀後半のフランスの宗教内乱、ユグノー戦争でも新旧両陣営に多くのスイス人傭兵がみられた。
1610年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
1614年、傭兵契約同盟に反対していたチューリヒ(ツヴィングリとその後継者の影響)もフランスとの傭兵契約同盟を締結している。外交的孤立と経済的行き詰まり打開のためだったが、傭兵契約同盟と中立は矛盾しないと考えられていた。
30年戦争(1618〜48年)で新教側のスウェーデン王グスタヴ・アードルフは、1631年スイス盟約者団会議に同盟を提案している。32年1月、盟約者団会議は同盟を拒絶したが、スウェーデン王がさらに中立を提案し、アルプスの峠封鎖を求めると、盟約者団は中立を守ることを伝えている。スウェーデンの陣営では多くのスイス人傭兵が戦っていた。1639年にはカトリック側が助力を求めてくるが、今後も中立にとどまるという態度を表明している。
1635〜48年のあいだに、フランスのリシュリューの軍隊では5万4千人のスイス人傭兵が働いていた。中立の立場を外国勢力に認めてもらうためには、多数の傭兵の血が必要だった。
30年戦争(1618〜48年)で新教側のスウェーデン王グスタヴ・アードルフは、1631年スイス盟約者団会議に同盟を提案している。32年1月、盟約者団会議は同盟を拒絶したが、スウェーデン王がさらに中立を提案し、アルプスの峠封鎖を求めると、盟約者団は中立を守ることを伝えている。スウェーデンの陣営では多くのスイス人傭兵が戦っていた。1639年にはカトリック側が助力を求めてくるが、今後も中立にとどまるという態度を表明している。
1635〜48年のあいだに、フランスのリシュリューの軍隊では5万4千人のスイス人傭兵が働いていた。中立の立場を外国勢力に認めてもらうためには、多数の傭兵の血が必要だった。