
ミハイル・ロマノフ即位 ロマノフ朝始まる
1613年2月、ポーランド人支配から解放されたモスクワで、新しいツァーリを選ぶ全国会議が開かれた。選ばれたのは、イヴァン雷帝の最初の妃をだしたロマノフ家の若い後継者、16歳のミハイルだった。ロマノフ家はイヴァン・カリターの時代(14世紀前半)からの古い家柄の貴族だったが、ミハイルの父で実力者のフョードルがポーランドに囚われていて同情されたこと、名門貴族にとって操りやすいツァーリになると思われたことだった。ミハイルはおとなしく、敬虔な人柄だったが、その後300年続くロマノフ朝の始まりとなった。初期は名門貴族が実権を握り、全国会議が開催されて、ミハイルの統治を支えた。
ロマノフ新政権の課題はロシアを占領している外国軍を排除して、人々の安全を確保することだった。30年戦争前の1617年2月、スウェーデン王グスタフ・アドルフと和平を結んだ。ロシアはノヴゴロド返還とツァーリの承認を受ける代わりに、東カレリアとインゲルマンランドをゆずり、2万ルーブリを支払った。スウェーデンは30年戦争の戦勝国としてドイツにも領土を獲得して、1世紀にわたりバルト海の制海権を握ることになった。
ロマノフ新政権の課題はロシアを占領している外国軍を排除して、人々の安全を確保することだった。30年戦争前の1617年2月、スウェーデン王グスタフ・アドルフと和平を結んだ。ロシアはノヴゴロド返還とツァーリの承認を受ける代わりに、東カレリアとインゲルマンランドをゆずり、2万ルーブリを支払った。スウェーデンは30年戦争の戦勝国としてドイツにも領土を獲得して、1世紀にわたりバルト海の制海権を握ることになった。
翌年にはポーランドと休戦が成立した。30年戦争が始まり、ポーランド議会がロシアとの戦いのための資金供出を拒否したためだった。ロシアはスモレンスクを含む西部地域の回復を諦め、ツァーリとしての承認も拒否された。ミハイルの父フョードルの帰還だけが成果だった。
1619年夏に帰還したフョードルは総主教に就任して、フィラレートと名乗った。彼は「大君」の称号を受け、ミハイルの共同統治者として活動を開始した。まず軍隊の拡充がはかられた。銃兵隊の財政的手当のために税制改革がおこなわれ、歩兵連隊中心の「新軍」も編成された。指揮する将校にはヨーロッパ人が採用された。「新軍」は6万6千人規模になり、ヨーロッパ人将校も2500人となった。1632年からスモレンスク包囲を始めたが、フィラレートは翌年亡くなった。モスクワ解放の英雄シェインの部隊も敗れて、スモレンスク奪還は今回も失敗に終わった。ポーランドはロシアの占領地域を返還させ、2万ルーブリ支払いの代わりに、国王ヴワディスワフはツァーリ位への要求を断念した。
1610年代
世界各国史22 ロシア史
1619年夏に帰還したフョードルは総主教に就任して、フィラレートと名乗った。彼は「大君」の称号を受け、ミハイルの共同統治者として活動を開始した。まず軍隊の拡充がはかられた。銃兵隊の財政的手当のために税制改革がおこなわれ、歩兵連隊中心の「新軍」も編成された。指揮する将校にはヨーロッパ人が採用された。「新軍」は6万6千人規模になり、ヨーロッパ人将校も2500人となった。1632年からスモレンスク包囲を始めたが、フィラレートは翌年亡くなった。モスクワ解放の英雄シェインの部隊も敗れて、スモレンスク奪還は今回も失敗に終わった。ポーランドはロシアの占領地域を返還させ、2万ルーブリ支払いの代わりに、国王ヴワディスワフはツァーリ位への要求を断念した。
1610年代
世界各国史22 ロシア史