
国民軍 モスクワを解放
1611年1月以来、ニジニ・ノヴゴロドやヴォログダが反ポーランド闘争を呼びかけ、ヤロスラヴリなど多くの町が呼応した。2〜3月にリャザン軍司令官リャプノフを中心に第一次国民軍が結成された。トゥシノの偽ドミートリー2世軍にいた兵士も加わり、3月にはモスクワを逆包囲した。国民軍は士族層をまとめるリャプノフ、トゥシノの軍にいたトルベツコイ公、カザークを率いるザルツキーが指導部を構成し、6月にロシア統治のあり方を示す「全土の決定」を発表した。諸階層の利害の調整を図るものだったが、翌月リャプノフがカザークによって殺害されて、国民軍は瓦解した。モスクワ郊外ではカザーク諸集団による混乱が続いた。
1611年6月にスモレンスクがポーランド軍に降伏し、スウェーデンも領土を要求して、7月ノヴゴロドを占領した。ノヴゴロド市民はスウェーデン王子カール・フィリップをツァーリとして受け入れることを誓った。
1611年6月にスモレンスクがポーランド軍に降伏し、スウェーデンも領土を要求して、7月ノヴゴロドを占領した。ノヴゴロド市民はスウェーデン王子カール・フィリップをツァーリとして受け入れることを誓った。
再びニジニ・ノヴゴロドから国民軍召集の動きがでてきた。1611年9月、あるポサード民の呼びかけで第二次国民軍が結成された。私財を投じ、寄金を募り、兵を集め、諸都市に呼びかけた。獄中の総主教ゲルモゲンの国土解放を呼びかける回状の効果もあった。指揮官に半年前のモスクワ蜂起で負傷したボジャルスキー公を選んだ国民軍は1612年2月、モスクワに向けて進撃し、ヤロスラヴリで態勢を整えて7月首都をめざした。モスクワ周辺にいたカザークは、ポーランド人救援に向かうジグムント軍の接近もあって、多くは南方へ逃れ、一部は国民軍に加わった。国民軍がモスクワ郊外でポーランド軍を破り、モスクワを包囲した。10月国民軍はキタイ・ゴロドを奪い、クレムリンのポーランド人部隊が降伏して、モスクワは解放された。
1610年代
世界各国史22 ロシア史
1610年代
世界各国史22 ロシア史