
グスタヴ2世アードルフ(16歳)即位
1611年、父カール9世を継いだグスタヴ2世アードルフ(16歳、在位1611〜32)が王位についた。政策は父からの継承で、王権強化と中央集権化のために官僚制整備と常備軍強化が進められた。また4身分制(貴族・聖職者・市民・農民)議会の権威が高められ、1617年には最初の議会法が制定されている。1612年に宰相に就任したオクセンシャーナの影響もあったとされる。ただ新しい官僚制度や軍隊を率いるのは貴族で、王権強化のための政策だったが貴族の力を強めることになった。
1613年にはデンマークとの「カルマル戦争」をわずかな支払いで終結させた。ロシアのロマノフ朝が安定してきたことで、1617年にロシアへの介入を中止し、カレリア地峡と現在のサンクト・ペテルブルクを中心とするイングリアを獲得した。ポーランドとの争いは1614〜17年の休戦を挟んで続いていたが、1621年、王自ら戦場に臨み大攻勢をかけて、リガを含むリヴォニアをほぼ制圧した。
1613年にはデンマークとの「カルマル戦争」をわずかな支払いで終結させた。ロシアのロマノフ朝が安定してきたことで、1617年にロシアへの介入を中止し、カレリア地峡と現在のサンクト・ペテルブルクを中心とするイングリアを獲得した。ポーランドとの争いは1614〜17年の休戦を挟んで続いていたが、1621年、王自ら戦場に臨み大攻勢をかけて、リガを含むリヴォニアをほぼ制圧した。
30年戦争は新教側が不利な状況になっていた。1625年にデンマークが新教側として参戦したが、皇帝軍に敗れ、29年の「リューベックの講和」でドイツへの不介入の約束をさせられた。
皇帝軍がバルト海沿岸に進出したことは、スウェーデンのバルト海支配への脅威となった。グスタヴ2世は1629年にポーランドとの講和を成立させると、1630年自ら兵を率いてドイツへ侵入、30年戦争に参戦した。精強で軍紀が厳正なスウェーデン軍は新教側の主力となったが、同盟した諸国の動揺・不信のために決定的な勝利を得られなかった。1632年11月、スウェーデン軍はリュッツェンで皇帝軍との会戦をおこない、戦いには勝利したが国王グスタヴ2世は戦死した。
1610年代
世界各国史21 北欧史
皇帝軍がバルト海沿岸に進出したことは、スウェーデンのバルト海支配への脅威となった。グスタヴ2世は1629年にポーランドとの講和を成立させると、1630年自ら兵を率いてドイツへ侵入、30年戦争に参戦した。精強で軍紀が厳正なスウェーデン軍は新教側の主力となったが、同盟した諸国の動揺・不信のために決定的な勝利を得られなかった。1632年11月、スウェーデン軍はリュッツェンで皇帝軍との会戦をおこない、戦いには勝利したが国王グスタヴ2世は戦死した。
1610年代
世界各国史21 北欧史