
ポーランド軍 モスクワ入城
1607年6月、南西ロシアに偽ドミートリー2世が現れた。秋にポーランドのシュラフタや傭兵を加えて、ボロトニコフ救援のためにトゥーラへ向かった。途中ボロトニコフ降伏を知ると、1608年にモスクワへ向かい、6月にはモスクワ郊外のトゥシノに布陣、1609年末までのモスクワ攻囲戦に入った。この後さらにドミートリーを名乗る人物や、フョードル帝の息子、雷帝の孫と称する人物が現れて混乱した。
1609年5月、シュイスキー政府の要請を受けたスウェーデン軍が南下し、偽ドミートリー支配下の北部地方を開放した。ポーランド王は偽ドミートリー(1世)とは距離を置いていたが、1609年9月、ジグムント3世が軍を率いてロシアに侵入し、スモレンスクを包囲、一軍をモスクワに向かわせた。スモレンスク包囲は1611年6月まで続き、シュイスキー、偽ドミートリー2世、双方の人々との交渉の場にもなっていた。
この間にトゥシノの偽ドミートリー2世軍が崩壊し始めた。スモレンスクの王のもとに去るポーランド人が相次ぎ、ロシア人の中にも包囲戦に疲れて去る者が増えてきた。偽ドミートリー2世は南方へ撤退し、再びモスクワをめざしたが、10年7月シュイスキーがクーデタにより廃位され、ポーランド軍もモスクワへ向かったために撤退、年末、配下によって最期をとげた。
1609年5月、シュイスキー政府の要請を受けたスウェーデン軍が南下し、偽ドミートリー支配下の北部地方を開放した。ポーランド王は偽ドミートリー(1世)とは距離を置いていたが、1609年9月、ジグムント3世が軍を率いてロシアに侵入し、スモレンスクを包囲、一軍をモスクワに向かわせた。スモレンスク包囲は1611年6月まで続き、シュイスキー、偽ドミートリー2世、双方の人々との交渉の場にもなっていた。
この間にトゥシノの偽ドミートリー2世軍が崩壊し始めた。スモレンスクの王のもとに去るポーランド人が相次ぎ、ロシア人の中にも包囲戦に疲れて去る者が増えてきた。偽ドミートリー2世は南方へ撤退し、再びモスクワをめざしたが、10年7月シュイスキーがクーデタにより廃位され、ポーランド軍もモスクワへ向かったために撤退、年末、配下によって最期をとげた。
ポーランド軍はクーデタで成立した七人貴族会議と協定を成立させて、1610年8月モスクワに入城した。協定ではポーランド王子ヴワディスワフが正教に改宗して、ツァーリに即位することになっていた。そのためモスクワの貴族たちは、実権は自らで抑えられると確信していた。モスクワからの使節団が、スモレンスクへ準備交渉のために向かった。しかし、ポーランド王ジグムント3世は自らがツァーリとなると主張して、ロシアがポーランドに併合される危険性がでてきた。
モスクワでは、当初慎重に振る舞っていたポーランド占領軍が次第に横暴になって、住民の不満が高まっていた。総主教ゲルモゲンはジグムント3世がモスクワを支配しようとしているとして、反ポーランド・反カトリックの立場を表明して、キリーロフ修道院に拘禁された。モスクワでは1611年2月、3月に続けて蜂起が起き、占領軍の追放はできなかったが、ポーランド人が確保しているのはクレムリンとその東側のキタイ・ゴロドだけになっていた。
1610年代
世界各国史22 ロシア史
モスクワでは、当初慎重に振る舞っていたポーランド占領軍が次第に横暴になって、住民の不満が高まっていた。総主教ゲルモゲンはジグムント3世がモスクワを支配しようとしているとして、反ポーランド・反カトリックの立場を表明して、キリーロフ修道院に拘禁された。モスクワでは1611年2月、3月に続けて蜂起が起き、占領軍の追放はできなかったが、ポーランド人が確保しているのはクレムリンとその東側のキタイ・ゴロドだけになっていた。
1610年代
世界各国史22 ロシア史