
オランダ 国内の対立 ホマルス派とアルミニウス派
スペインとの休戦期間(1609〜21)のあいだ、オランダ国内では対立が起きていた。それは改革派の「予定説」の解釈をめぐっての対立として現れた。ホマルス派(厳格派)とアルミニウス派(寛容派)。レイデン大学の神学教授ホマルスを中心とするホマルス派は、州総督マウリッツや改革派の亡命者や難民、都市の下層民が支持。レイデン大学の神学教授アルミニウスを中心とするアルミニウス派はホラント州法律顧問、国際法の父グロティウスなど、オランダ土着の上層市民の支持を得ていた。
オランダ独立への過程で主導権を握っていた、少数の改革派亡命者(ホマルスもそのひとり)と受動的な対応を迫られた市民の対立でもあった。このころ、改革派亡命者は約15万人で、人口の10%だったとされるが、政治、軍事、宗教、文化など各分野で確かな勢力になっていた。
オランダ独立への過程で主導権を握っていた、少数の改革派亡命者(ホマルスもそのひとり)と受動的な対応を迫られた市民の対立でもあった。このころ、改革派亡命者は約15万人で、人口の10%だったとされるが、政治、軍事、宗教、文化など各分野で確かな勢力になっていた。
対立は「予定説」の解釈だけでなく、国家と教会の関係にもおよんだ。ホマルス派は教会が国家の上にあると主張し、アルミニウス派は国家が教会の上にあると主張した。ホラント州議会で解決が試みられたがかなわず、全国教会会議で決着をつけることになった。
1618年11月、ドルドレヒトで始まった会議は、イギリス、スイス、ドイツの神学者も参加した国際会議になった。半年後、会議は正統カルヴァン主義の三大原則をドルトレヒト規定として確認し、ホマルス派の全面勝利となった。
アルミニウス派の牧師は職を奪われ、関係する政治家も断罪された。しかしホマルス派の勝利も長くは続かず、教会が国家の上に立つ神政政治は実現しなかった。
1600年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1618年11月、ドルドレヒトで始まった会議は、イギリス、スイス、ドイツの神学者も参加した国際会議になった。半年後、会議は正統カルヴァン主義の三大原則をドルトレヒト規定として確認し、ホマルス派の全面勝利となった。
アルミニウス派の牧師は職を奪われ、関係する政治家も断罪された。しかしホマルス派の勝利も長くは続かず、教会が国家の上に立つ神政政治は実現しなかった。
1600年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史