
「新教同盟(ウニオン)」「旧教連盟(リガ)」結成
1555年のアウクスブルク宗教平和令のあと、プロテスタントは北ドイツに勢力を拡大し、カトリックはトリエント公会議ののち攻勢に出ていた。平和令の「聖職者にかんする留保」条項、「大司教などの聖職者は、改宗した場合にはそのすべての権限を失う。パッサウ条約(1552年)の時点でルター派のもとにあったすべての財産はそのままとする。」が問題だった。
プロテスタントは帝国同族の同意をえていないとして、その条項の無効と既成事実の尊重を主張した。カトリックは留保条項をもとに巻き返しを図っていた。1570年代以降、両派の対立は深まり、1582〜83年のケルン大司教職をめぐる争いになった。カトリックの勝利になったが、帝国議会は争いを抑える力を持たず、軍事力による決着が避けられなくなっていた。
1600年代
世界各国史13 ドイツ史
プロテスタントは帝国同族の同意をえていないとして、その条項の無効と既成事実の尊重を主張した。カトリックは留保条項をもとに巻き返しを図っていた。1570年代以降、両派の対立は深まり、1582〜83年のケルン大司教職をめぐる争いになった。カトリックの勝利になったが、帝国議会は争いを抑える力を持たず、軍事力による決着が避けられなくなっていた。
1600年代
世界各国史13 ドイツ史
プロテスタント陣営は、あらたな急進派カルヴァン派と穏健なルター派に分かれていたが、1608年、カルヴァン派のリーダー、プファルツ選帝侯を中心に「新教同盟(ウニオン)」が結成された(ルター派のザクセンは不加盟)。翌年にはバイエルン侯マクシミリアンによって、オーストリアを除くカトリック陣営の「旧教連盟(リガ)」が結成された。「新教同盟」にはカルヴァン派、オランダが、「旧教連盟」にはカトリックの盟主スペインがついていた。
1609年、ライン河畔に比較的大きな版図をもっていたユーリヒ・クレーヴェ大公が世継ぎを残さず死去した。継承問題が起こり、ブランデンブルクには新教同盟、プファルツ・ノイブルクには旧教連盟がつき、新教側にはフランス、オランダ、旧教側には皇帝、スペインの後押しがあった。1614年、フランス・イギリスの仲介でプロテスタントの多いクレーヴェなどをブランデンブルクが、カトリックが多いユーリヒなどをプファルツ・ノイブルクが継承することになった。
1609年、ライン河畔に比較的大きな版図をもっていたユーリヒ・クレーヴェ大公が世継ぎを残さず死去した。継承問題が起こり、ブランデンブルクには新教同盟、プファルツ・ノイブルクには旧教連盟がつき、新教側にはフランス、オランダ、旧教側には皇帝、スペインの後押しがあった。1614年、フランス・イギリスの仲介でプロテスタントの多いクレーヴェなどをブランデンブルクが、カトリックが多いユーリヒなどをプファルツ・ノイブルクが継承することになった。