
偽ドミートリー ツァーリになる 翌年 クーデタ
1602年秋、ポーランドで皇子ドミートリーを名乗る人物が現れた。ドミートリーは雷帝の息子で、フョードルの異母弟だったが、1591年、8歳の時に不慮の死をとげていた。当時から、ほかの皇位継承者を排除するために、ボリス・ゴドゥノフが暗殺したとも疑われていた。
1604年偽ドミートリーはポーランドの中小貴族、傭兵、カザークなどとロシアに侵入した。強力な軍隊ではなく、時には敗れて退却することもあったが、自分こそが真のツァーリで、ボリスは帝位簒奪者であると主張した。飢饉に苦しんでいたロシアの地方都市民や農民のあいだに「真の皇子」あらわれるという噂が広がり、偽ドミートリーを支えることになった。
1605年4月、長く病床にあって、有効な対策がとれなかったボリスが死去し、政府軍が瓦解した。
1605年6月、偽ドミートリーはモスクワに入城し、ツァーリ・ドミートリーとなった。モスクワに支持層や政治勢力をもたなかった偽皇帝の場当たり的・浪費的統治は長くは続かなかった(11ヵ月)。モスクワで彼に従ってきた、ポーランド人やカザークが住民の反感をかうことになり、ヴァシーリー・シュイスキーらによるクーデタによって倒された。
1604年偽ドミートリーはポーランドの中小貴族、傭兵、カザークなどとロシアに侵入した。強力な軍隊ではなく、時には敗れて退却することもあったが、自分こそが真のツァーリで、ボリスは帝位簒奪者であると主張した。飢饉に苦しんでいたロシアの地方都市民や農民のあいだに「真の皇子」あらわれるという噂が広がり、偽ドミートリーを支えることになった。
1605年4月、長く病床にあって、有効な対策がとれなかったボリスが死去し、政府軍が瓦解した。
1605年6月、偽ドミートリーはモスクワに入城し、ツァーリ・ドミートリーとなった。モスクワに支持層や政治勢力をもたなかった偽皇帝の場当たり的・浪費的統治は長くは続かなかった(11ヵ月)。モスクワで彼に従ってきた、ポーランド人やカザークが住民の反感をかうことになり、ヴァシーリー・シュイスキーらによるクーデタによって倒された。
クーデタ直後、貴族たちによってシュイスキーがツァーリに選ばれた。シュイスキー家はアレクサンドル・ネフスキー(在位1252〜63)の弟に始まる名門だったが、同家からモスクワ大公・ツァーリになった者はいなかった。簒奪に近い即位で、混沌とした状況を統治するのは困難だった。偽ドミートリーを支えた南西ロシアで反乱が起きつつあり、「真の」皇帝やその縁者を称する者たちが次々に現れてきた。
プチヴリの軍司令官シャホフスコイ公が、シュイスキー政府打倒をめざし、広範な反中央運動と連動して兵を挙げた。そのなかから1607年夏、ボロトニコフが反乱軍を率いてモスクワをめざし、10月末には包囲した。ボロトニコフの主力は農民・ホロープ(奴隷)で、反政府的士族シャホフスコイ公とは方向性が違っていた。反乱軍は分裂し、ボロトニコフ軍は撤退、トゥーラで政府軍に包囲され、1607年秋に合流していた偽皇子ピョートル(イレイカ・ムーロメッツ)とともに捕らえられた。
1600年代
世界各国史22 ロシア史
プチヴリの軍司令官シャホフスコイ公が、シュイスキー政府打倒をめざし、広範な反中央運動と連動して兵を挙げた。そのなかから1607年夏、ボロトニコフが反乱軍を率いてモスクワをめざし、10月末には包囲した。ボロトニコフの主力は農民・ホロープ(奴隷)で、反政府的士族シャホフスコイ公とは方向性が違っていた。反乱軍は分裂し、ボロトニコフ軍は撤退、トゥーラで政府軍に包囲され、1607年秋に合流していた偽皇子ピョートル(イレイカ・ムーロメッツ)とともに捕らえられた。
1600年代
世界各国史22 ロシア史