
偽ドミートリー モスクワに侵攻
ロシアではリューリク王朝断絶後(1598年)、ボリス・ゴドゥノフが帝位に就いていた。1602年秋、「共和国」に殺されたはずのイヴァン4世(雷帝)の息子ドミートリー(1591年、8歳で不慮の死)を名乗る男が現れ、大貴族やサンドミエシ知事ムニシェフたちの支持を得た。1604年、偽ドミートリーはカトリックに改宗し、イエズス会とジグムント3世の暗黙の了解を受けてモスクワに侵攻した。翌年ゴドゥノフの急死後、ツァーリの位に就き、ムニシェフの娘を帝妃にむかえた。しかし、1606年ポーランド人の介入に反発する反乱が起き、偽ドミートリーは殺され、ヴァシリー・シュイスキーがツァーリとなった。
1600年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
世界各国史22 ロシア史
1600年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
世界各国史22 ロシア史
1607年、再び偽ドミートリーを名乗る男が「共和国」に現れて、シュラフタの支援を受けてモスクワに向かった。1609年対抗するためにシュイスキーがスウェーデン(1599年に国王ジグムントを廃位した)と同盟を組むと、ジグムント3世はモスクワ遠征を決めた。1610年ポーランド軍はモスクワに入城した。遠征軍司令官はシュイスキーを退位させてジグムント3世の息子ヴワディスワフを即位させようとしたが、ジグムント3世は自らがツァーリとなることを主張した。もめている間にモスクワのポーランド軍は包囲されて降伏し、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに選出されて、遠征は失敗した。
1617〜18年に3度目のヴワディスワフをツァーリに立てるモスクワ遠征がおこなわれた。帝位獲得には失敗したが、1618年末のデウリノの講和で、16世紀前半に失われていたスモレンスクを含む東方の領土が再び「共和国」に併合された。
1617〜18年に3度目のヴワディスワフをツァーリに立てるモスクワ遠征がおこなわれた。帝位獲得には失敗したが、1618年末のデウリノの講和で、16世紀前半に失われていたスモレンスクを含む東方の領土が再び「共和国」に併合された。