
イングランド王ジェイムズ1世 即位
1603年3月、エリザベスが死去して、スコットランド王ジェイムズ6世が、イングランド王ジェイムズ1世(在位1603〜25)として即位した。イングランドとスコットランドは、議会は別だが同じ国王によって統治される「同君連合」になり、1649年まで続く初期ステュアート朝が始まった。
ピューリタンたちは4月、戴冠式に向かう新国王に「千人請願」という文書を提出して、国教会からカトリック的要素を除き、宗教改革を徹底するように求めた。王は国教会の主教とピューリタン聖職者との宗教的協議の場を設け、1604年1月ハンプトン・コート会議を開催した。しかし国王はピューリタンの要求を退け、「主教なければ国王なし」と述べて、国教会体制の堅持を表明した。
議会の庶民院に選出されたジェントリを中心とした社会層も国王と対立した。彼らは、エリザベス時代に無給の治安判事を務めたり、商工業でも地方社会の「名望家」として根付いていた。有給の官僚組織をもたないイギリスの王政にとって、ジェントリを中心とした社会層の協力は、安定した政治のために必要だった。
1600年代
ピューリタンたちは4月、戴冠式に向かう新国王に「千人請願」という文書を提出して、国教会からカトリック的要素を除き、宗教改革を徹底するように求めた。王は国教会の主教とピューリタン聖職者との宗教的協議の場を設け、1604年1月ハンプトン・コート会議を開催した。しかし国王はピューリタンの要求を退け、「主教なければ国王なし」と述べて、国教会体制の堅持を表明した。
議会の庶民院に選出されたジェントリを中心とした社会層も国王と対立した。彼らは、エリザベス時代に無給の治安判事を務めたり、商工業でも地方社会の「名望家」として根付いていた。有給の官僚組織をもたないイギリスの王政にとって、ジェントリを中心とした社会層の協力は、安定した政治のために必要だった。
1600年代
しかしジェイムズ1世は王権神授説をとり、「国王・貴族院・庶民院」三者のバランスをとるイギリスの伝統的国制を軽視した。庶民院議員たちは、著名な法学者エドワード・クックを中心に、イギリス固有の法体系コモン・ローによって、国王の侵犯に抵抗した。ジェントリやヨーマンは、地域の農業改良を指導して生産力を高めたり、毛織物工業に従事していた。しかし1620年代に、毛織物工業の輸出先を失い、深刻な不況にみまわれた。薄手の「新毛織物」を輸出品にしたり、「実験企業」による、製紙・石鹸・ガラスなどを製造する新しい産業も現れた。これらは困窮した農民に仕事を与えるとともに、輸入していた商品の国産化を進めることにもなった。
国王の政府は、不況にたいする抜本的な対策はとらず、財政難を打開するために独占権を乱発したり、特定の産業や特権商人を保護していた。1627年議会は国王の独占権賦与を制限する法を成立させて、議会と国王の対立関係が強まった。
ヨーマン ジェントリと貧農の中間の富農層、通常選挙権を持っている。
世界各国史11 イギリス史
国王の政府は、不況にたいする抜本的な対策はとらず、財政難を打開するために独占権を乱発したり、特定の産業や特権商人を保護していた。1627年議会は国王の独占権賦与を制限する法を成立させて、議会と国王の対立関係が強まった。
ヨーマン ジェントリと貧農の中間の富農層、通常選挙権を持っている。
世界各国史11 イギリス史