
オランダ連合東インド会社設立
ホラント州法律顧問オルデンバルネフェルトは先駆諸会社をまとめて一つの東インド会社をつくることにした。ゼーラント州の反対があったが、1602年3月オランダ連合東インド会社が成立した。
東インド会社は6つの支社(アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフ(ゼーラント))からなり、正式の本社はない。規模が大きかったため、アムステルダム支社が事実上の本社機能を持つようになった。7つあった先駆会社(ロッテルダムに2つ)の利害を温存しながら、全体の調整をはかるためらしい。資本金は支社ごとに募集され、アムステルダム支社が約57%を集め、大口出資者にはアントウェルペンから逃れてきた大商人が多かった。資本金はイギリスの東インド会社の約10倍だった。大口出資者76人が重役になり、17人の取締役による「17人会」という取締役会が構成された。
東インド会社は6つの支社(アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフ(ゼーラント))からなり、正式の本社はない。規模が大きかったため、アムステルダム支社が事実上の本社機能を持つようになった。7つあった先駆会社(ロッテルダムに2つ)の利害を温存しながら、全体の調整をはかるためらしい。資本金は支社ごとに募集され、アムステルダム支社が約57%を集め、大口出資者にはアントウェルペンから逃れてきた大商人が多かった。資本金はイギリスの東インド会社の約10倍だった。大口出資者76人が重役になり、17人の取締役による「17人会」という取締役会が構成された。
東インド会社は連邦議会の特許状によって21年間の期限で設立されたが、その後も特許状は更新された(1623、1647、1665、1696、1742、1748、1773、1776年)。特許状によると東インド会社はアフリカ最南端からインド洋、太平洋、マゼラン海峡までの広大な海域での貿易独占権を認められ、いくつかの主権的権限も与えられた。そのため会社は総督を任命したり、必要に応じて要塞を築いて兵士を駐留させたり、アジア各地の王侯と条約を結ぶことができた。たんなる貿易会社ではなく、アジア各地のポルトガルの拠点を攻撃し、ときには奪取することもねらった国策会社という面ももっていた。
1600年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1600年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史