
リーフデ号 大分 臼杵湾に漂着
1598年にロッテルダムのマゼラン会社がアジアへ向けて派遣した5隻の船団のうちの1隻、リーフデ号が臼杵湾佐志生(さしう)に漂着した。アフリカ、インド洋航路ではなく、マゼラン海峡から太平洋を西に進み、途中で4隻は行方不明などになっている。船長クワーケルナーク、航海長アダムズ(イギリス人)、高級船員ヤン・ヨーステンは日本との関係で重要な役割を果たしている。
1609年6月、オランダ東インド会社の船2隻が長崎と平戸に来航した。平戸領主松浦氏の仲立ちで二人のオランダ人が駿府で徳川家康に謁見し、州総督ナッサウ伯マウリッツの書簡を届けた。7月に家康から朱印状が交付され、貿易が許可されると、平戸に商館を置き初代商館長スペックス以下6人の商館員を配置した。イギリスは1613年11月に平戸に商館をおいたが、オランダとの競争に敗れ10年で撤退した。
1609年6月、オランダ東インド会社の船2隻が長崎と平戸に来航した。平戸領主松浦氏の仲立ちで二人のオランダ人が駿府で徳川家康に謁見し、州総督ナッサウ伯マウリッツの書簡を届けた。7月に家康から朱印状が交付され、貿易が許可されると、平戸に商館を置き初代商館長スペックス以下6人の商館員を配置した。イギリスは1613年11月に平戸に商館をおいたが、オランダとの競争に敗れ10年で撤退した。
当初、平戸のオランダ商館は、スペイン船、ポルトガル船を攻撃するための軍事拠点とされ、武器や食糧の調達、日本人傭兵や奴隷の送り出しの基地とされていた。1621年9月、幕府の禁令がだされた後、本格的な商館として活動を始めた。日本との貿易を発展させるのに中国の生糸、絹織物が重要と知ったオランダ人は、中国本土への進出が認められていなかったため、タイオワン(台湾)を拠点に、中国との貿易を展開しようとした。
1624年にスペイン人を追放して台湾全島を支配したオランダは、日本の朱印船も台湾貿易から閉め出そうとしたため、一時関係が悪化、幕府は1628年から33年にかけてオランダ商館を閉鎖させた。
1600年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史
1624年にスペイン人を追放して台湾全島を支配したオランダは、日本の朱印船も台湾貿易から閉め出そうとしたため、一時関係が悪化、幕府は1628年から33年にかけてオランダ商館を閉鎖させた。
1600年代
世界各国史14 スイス・ベネルクス史