
ナントの王令
1593年にアンリ4世はカトリックに改宗することで、王国の統一を回復しようとした。
カトリックの一部に、宗教戦争が始まった頃から、どちらの陣営にも与せず、王国の統一を最優先と考えるポリティーク派と呼ばれる人々がいた。アンリ4世即位の頃(1589年)から、都市の上層市民、官職保有者のなかにポリティーク派の賛同者が増え、国家教会を支持する人たちも加わった。
1594年3月、パリ開城に成功したアンリ4世は、1598年4月にナントの王令を出して、制限はついているがプロテスタントの信仰の自由を認め、宗教戦争を終わらせた。
1590年代
世界各国史12 フランス史
カトリックの一部に、宗教戦争が始まった頃から、どちらの陣営にも与せず、王国の統一を最優先と考えるポリティーク派と呼ばれる人々がいた。アンリ4世即位の頃(1589年)から、都市の上層市民、官職保有者のなかにポリティーク派の賛同者が増え、国家教会を支持する人たちも加わった。
1594年3月、パリ開城に成功したアンリ4世は、1598年4月にナントの王令を出して、制限はついているがプロテスタントの信仰の自由を認め、宗教戦争を終わらせた。
1590年代
世界各国史12 フランス史
宗教対立が長期化したのは、この時期の政治的・社会的要因も関わっている。
政治の主導権をめぐる大貴族たちの争い。16世紀半ばにカトリック教会とつながりが強いギーズ家が宮廷への影響力を強め、広まってきたプロテスタント信仰の弾圧を主張した。筆頭親王家のブルボン家はこれに反発し、プロテスタントを支配下に入れてギーズ家に対抗しようとした。それぞれの陣営に保護・被保護関係による貴族が加わった。
15世紀半ばから、王権のもとに統合されているように見えた諸地方・都市にも自律性を取り戻す動きがあり、地方総督の中には地方三部会の支持を得て独立的な動きを見せる場合もあった。民衆も共同体的な一体性が薄れ、相手に対して集団的暴力をふるうとき、共同体から穢れを取り除こうとする意識も生まれていた。宗教的な争いを起こすのは、信心会、祭りの組織、若者組、民兵組織などが多かった。
15世紀半ばから、王権のもとに統合されているように見えた諸地方・都市にも自律性を取り戻す動きがあり、地方総督の中には地方三部会の支持を得て独立的な動きを見せる場合もあった。民衆も共同体的な一体性が薄れ、相手に対して集団的暴力をふるうとき、共同体から穢れを取り除こうとする意識も生まれていた。宗教的な争いを起こすのは、信心会、祭りの組織、若者組、民兵組織などが多かった。