
ルブリン合同
ヤギェウォ家最後の二代の君主、ジグムント1世とジグムント2世アウグスト(1529年即位 治世は1548〜72)は王位と大公位を兼ね、ポーランドとリトアニアは同君連合だった。リトアニア大公位はヤギェウォ家の世襲で、ポーランド王位は選挙制だった。ジグムント2世に子供がなかったため、ヤギェウォ家断絶によって両国の関係が変わる可能性があった。
王国領のシュラフタは人口密度が低い東方への進出を、リトアニアの下層貴族は特権の拡大を望んで、1569年のルブリン議会で両国の制度的合同が成立した(ルブリン合同)。両国は共通の選挙で君主を選び、合同で議会を開き、統一した外交政策をおこなうことになった。(行・財政機構、軍隊は個別に組織)
1560年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
王国領のシュラフタは人口密度が低い東方への進出を、リトアニアの下層貴族は特権の拡大を望んで、1569年のルブリン議会で両国の制度的合同が成立した(ルブリン合同)。両国は共通の選挙で君主を選び、合同で議会を開き、統一した外交政策をおこなうことになった。(行・財政機構、軍隊は個別に組織)
1560年代
世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史
両国の貴族がそれぞれの領土に自由に土地を取得することが認められ、ポーランド貴族の東方進出が進められた。また合同の前にリトアニア領だったポドラシェ、ヴォウィン、ウクライナ(キエフ県、ブラツワフ県)が王国領に編入された。
ポーランド・リトアニア「共和国」の拡大・統合によって多民族国家としての性格が強くなった。16世紀後半にはルテニア人(ウクライナ人・ベラルーシ人)、リトアニア人、ドイツ人、ユダヤ人、アルメニア人、タタールなど非ポーランド系住民が半数を占め、宗教もローマ・カトリック、プロテスタント諸教会、東方正教会、合同教会(1596年に成立、ユニエイト教会)、ユダヤ教、イスラム教など多様な宗派が共存していた。身分はシュラフタ、都市民、農民、聖職者の4身分に分かれていたが、ユダヤ人、アルメニア人、タタールにもそれぞれ自治的な権利が認められ、一種の身分団体となっていた。
ポーランド・リトアニア「共和国」の拡大・統合によって多民族国家としての性格が強くなった。16世紀後半にはルテニア人(ウクライナ人・ベラルーシ人)、リトアニア人、ドイツ人、ユダヤ人、アルメニア人、タタールなど非ポーランド系住民が半数を占め、宗教もローマ・カトリック、プロテスタント諸教会、東方正教会、合同教会(1596年に成立、ユニエイト教会)、ユダヤ教、イスラム教など多様な宗派が共存していた。身分はシュラフタ、都市民、農民、聖職者の4身分に分かれていたが、ユダヤ人、アルメニア人、タタールにもそれぞれ自治的な権利が認められ、一種の身分団体となっていた。