
アルバ公の大軍 ブリュッセル到着 騒擾評議会
フェリペ2世は1565年10月、改めて異端審問の強化などを執政に命令した。下級貴族は同年12月「盟約」を結んで、この命令に反対することを決め、1566年4月に2〜300人の下級貴族が執政に異端審問に中止などを求めた。このときに「乞食 へーゼン」という蔑称が初めて使われたとされる。下級貴族は物価高騰のために地代収入が減少し、司教区再編などで経済的に追いつめられていた。
執政は下級貴族の要求を受け入れ、異端審問の一時緩和を発表した。すると亡命していた改革派信徒が帰国し始め、各地で活発な野外説教をおこなった。1566年8月、フランドル州でカトリック教会や修道院をねらった聖画像破壊暴動が発生し、それは改革派が浸透していなかった北部の都市(アムステルダム、ユトレヒト、レイデンなど)にも波及した。
1566年は「飢餓の年」と呼ばれるほど経済が混乱していた。北欧での戦争で穀物輸入が減って、パンの価格が高騰し、64年から66年にかけて冬の寒さが厳しかった。暴動は鎮圧され、異端審問が続けられたが、のちの低地諸州の反乱の導火線になり、飢餓の年は「奇跡の年」ともいわれるようになる。
1560年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
執政は下級貴族の要求を受け入れ、異端審問の一時緩和を発表した。すると亡命していた改革派信徒が帰国し始め、各地で活発な野外説教をおこなった。1566年8月、フランドル州でカトリック教会や修道院をねらった聖画像破壊暴動が発生し、それは改革派が浸透していなかった北部の都市(アムステルダム、ユトレヒト、レイデンなど)にも波及した。
1566年は「飢餓の年」と呼ばれるほど経済が混乱していた。北欧での戦争で穀物輸入が減って、パンの価格が高騰し、64年から66年にかけて冬の寒さが厳しかった。暴動は鎮圧され、異端審問が続けられたが、のちの低地諸州の反乱の導火線になり、飢餓の年は「奇跡の年」ともいわれるようになる。
1560年代
世界各国史16 スペイン・ポルトガル史
フェリペ2世は低地地方の秩序回復のために大軍の派遣を決定した。1567年8月、アルバ公指揮下の1万人余りの軍がブリュッセルに到着した。アルバ公はフェリペ2世の首席顧問で「鉄の公爵」とも呼ばれる強硬派だった。9月に布告をだして「騒擾評議会(血の評議会)」という特別法廷をつくり、暴動の参加者や改革派の追及を始めた。処刑されたり、財産没収の処分を受けた人は1万人を越えたとされる。執政マルハレータとも対立して、12月には自ら執政に就任した。さらに1569年3月には、十分の一税を導入している。財政状況の改善も命じられていたらしい。
貴族の反応は二つに分かれた。最有力の大貴族オランイェ(オラニエ)公ウィレム1世(沈黙公)は1567年4月、事態収拾の責任を問われることを恐れてドイツに逃れた。他方ホールネ(ホールヌ)伯、エフモント(エグモント)伯などの大貴族はフェリペ2世に忠誠を誓い国内にとどまった。アルバ公の追及は厳しく、オランイェ公をはじめとする亡命貴族の領地・財産を没収し、ホールネ伯・エフモント伯など20名の有力貴族を1568年6月ブリュッセルで処刑した。カトリック教徒でも安全は保障されず、追及は異端審問から政治的反対勢力に対する弾圧に変化していた。
貴族の反応は二つに分かれた。最有力の大貴族オランイェ(オラニエ)公ウィレム1世(沈黙公)は1567年4月、事態収拾の責任を問われることを恐れてドイツに逃れた。他方ホールネ(ホールヌ)伯、エフモント(エグモント)伯などの大貴族はフェリペ2世に忠誠を誓い国内にとどまった。アルバ公の追及は厳しく、オランイェ公をはじめとする亡命貴族の領地・財産を没収し、ホールネ伯・エフモント伯など20名の有力貴族を1568年6月ブリュッセルで処刑した。カトリック教徒でも安全は保障されず、追及は異端審問から政治的反対勢力に対する弾圧に変化していた。