
オプリーチニナ
リヴォニア戦争が長期化すると、イヴァン4世はすべてをアダーシェフらの改革政府の責任とした。アダーシェフはリヴォニア進出には慎重で、イヴァンは改革政府の政策の成果に不満を感じていた。アダーシェフは前線に追放され、その後逮捕されて、獄死した。シリヴェストルも自ら修道院に入った。
改革政府が崩壊して実権はイヴァンの妻の実家、ザハリン家に移った。これに不満な門閥貴族との間に対立が起きて政治が混乱し、経済危機も続いた。諸公のリトアニアへの亡命、逮捕、弾圧が始まった。1564年4月、有能な軍司令官クールプスキー公がリトアニアへ亡命した。彼はツァーリの圧政を批判する書簡を送り、イヴァンもこれに応じた。政治亡命者の政権批判とツァーリの専制権力正当化の往復書簡が交わされた。
1564年12月、イヴァンは家族、選抜していた貴族、士族、廷臣らとクレムリンを去った。宝物などを満載した荷車も従っていた。翌年1月ツァーリはアレクサンドロフスカヤ村から2通の書状をモスクワに送った。
1通は貴族や高位聖職者に宛てたもので、彼らが敵と戦うことをいとい、「裏切り者」をかばっていると非難し、イヴァンは多くの裏切りに耐えかねて「神の示したもうところに移り住むつもりである」と記されていた。もう1通はモスクワの住民に宛てられ、ツァーリの怒りは住民にたいするものではない、と記されていた。
住民は貴族や高位聖職者に、代表団をツァーリのもとに派遣させた。イヴァンは「裏切り者」を自由に処罰し、「望むがままに」支配するという条件で帰還することになった。
1560年代
世界各国史22 ロシア史
改革政府が崩壊して実権はイヴァンの妻の実家、ザハリン家に移った。これに不満な門閥貴族との間に対立が起きて政治が混乱し、経済危機も続いた。諸公のリトアニアへの亡命、逮捕、弾圧が始まった。1564年4月、有能な軍司令官クールプスキー公がリトアニアへ亡命した。彼はツァーリの圧政を批判する書簡を送り、イヴァンもこれに応じた。政治亡命者の政権批判とツァーリの専制権力正当化の往復書簡が交わされた。
1564年12月、イヴァンは家族、選抜していた貴族、士族、廷臣らとクレムリンを去った。宝物などを満載した荷車も従っていた。翌年1月ツァーリはアレクサンドロフスカヤ村から2通の書状をモスクワに送った。
1通は貴族や高位聖職者に宛てたもので、彼らが敵と戦うことをいとい、「裏切り者」をかばっていると非難し、イヴァンは多くの裏切りに耐えかねて「神の示したもうところに移り住むつもりである」と記されていた。もう1通はモスクワの住民に宛てられ、ツァーリの怒りは住民にたいするものではない、と記されていた。
住民は貴族や高位聖職者に、代表団をツァーリのもとに派遣させた。イヴァンは「裏切り者」を自由に処罰し、「望むがままに」支配するという条件で帰還することになった。
1560年代
世界各国史22 ロシア史
設立されたのが皇室特別領(オプリーチニナ)。イヴァンは国家をオプリーチニナと国土(ゼームシチナ)に分け、オプリーチニナではツァーリが専制的に支配することにした。オプリーチニナは貴族・士族の私有地が多い中央諸地方、リトアニア側の西部・南西部、国有地が多い北部沿海地方、各地の皇室御料地などで、モスクワにもオプリーチニナ地区が設定された。オプリーチニキ(オプリーチニナ隊員)に選抜されず、オプリーチニナに領地をもつ者の領地は没収され、ゼームシチナ内に代替地が与えられた。完全には実行されていなかったらしい。オプリーチニキは6000人ほどで、黒い長衣を着て、ツァーリの専制支配を実現しようとしていた。
オプリーチニナは諸公・門閥貴族を根絶しようとしたらしい。スーズダリ貴族がカザンに追放されたが、その多くが翌年には戻っている。貴族層に依存する政治体制は変わらなかった。オプリーチニナによってそれぞれの身分で犠牲となった人々が存在した。
オプリーチニナ最大の特徴は「裏切り者」への弾圧と処刑だった。1567年からは大規模な弾圧が繰り返され、1568年にはオプリーチニナに反対した府主教が廃位・投獄・殺害された。69年には分領公(イヴァンの従兄弟)が殺害された。1570年のノヴゴロド攻撃(ポーランド王と結び、ツァーリを裏切ろうとしたという理由)は、無差別テロルだった。その後オプリーチニナ創設期の世代が、急進的指導部によって処刑され、1570年夏にはモスクワで官庁役人たちが処刑された。
1571年、クリミア軍のモスクワ攻撃を阻止できなかったことをきっかけに、1572年オプリーチニナは廃止されたらしい。皇帝権強化のための政策ともされるが、「専制」を理想としたツァーリの非歴史的・非現実的な政策だった。
オプリーチニナは諸公・門閥貴族を根絶しようとしたらしい。スーズダリ貴族がカザンに追放されたが、その多くが翌年には戻っている。貴族層に依存する政治体制は変わらなかった。オプリーチニナによってそれぞれの身分で犠牲となった人々が存在した。
オプリーチニナ最大の特徴は「裏切り者」への弾圧と処刑だった。1567年からは大規模な弾圧が繰り返され、1568年にはオプリーチニナに反対した府主教が廃位・投獄・殺害された。69年には分領公(イヴァンの従兄弟)が殺害された。1570年のノヴゴロド攻撃(ポーランド王と結び、ツァーリを裏切ろうとしたという理由)は、無差別テロルだった。その後オプリーチニナ創設期の世代が、急進的指導部によって処刑され、1570年夏にはモスクワで官庁役人たちが処刑された。
1571年、クリミア軍のモスクワ攻撃を阻止できなかったことをきっかけに、1572年オプリーチニナは廃止されたらしい。皇帝権強化のための政策ともされるが、「専制」を理想としたツァーリの非歴史的・非現実的な政策だった。